唇トラップ



八坂さんの依頼は、いとも簡単で。
ただひたすらに、面倒臭い内容だった。



『なんで、一個ずつファイルを転送しないといけないんですか・・・
自分で開けばいいじゃないですか。まさか、おたく八坂さんじゃないんですか?ニセモノ?』

“社外にいる。データベースにアクセス出来ない。”


そう言われて、みると。
確かに、送信者を示すIPアドレスが社外からになっていた。





『どこにいるんですか?』

“明日の朝までに資料を纏めないと、うちの会社の決算報告は遅れる。”

『はい?!』


この、『はい?!』は。
飛び出した、私の驚きの声。

決算報告が、遅れる??
そんな由々しき事態が、ありえる?!



『嘘でしょ・・・?』

レスも出来ないまま呟くと、また届いたメールには。


“うちの課の人間に指示をしたが、そもそもファイルを社外送信する手順が分かってない。一つずつ対応させてたら、間に合わない。”


そっか・・・。
確かに、これら機密情報を社外にいることになってる八坂さんに送るには、その度システム部にセキュリティ申請が必要。


“お前なら朝飯前だろう。”


仰るとおり、私たち秘書課の課員には。
役員フォローのために、殆んどの社内データベースにアクセスできる権限が付与されているし。

それらのファイルを出先の役員に送ることも日常茶飯事なので、それほど難しいことではない。




“頼むよ。時間がない。”


私の反応を待たず、次々と画面に浮き上がる八坂さんからのSOSに。
なんだか本当に、ただ事ではない気がしてきて。



『分かりました。蟹。』

そう打って、コーヒーを入れるために席を立った。

これだけの数のファイルを転送しないといけない。一つでも手順を間違えて外部に漏れれば、懲戒免職ものの大事故。
十分すぎるほど目が冴えていないと、いくら慣れていても少し怖い。








最後の、蟹の意味。
分かったかな?

分かってなさそうだったら、『鰻より蟹の方が好きなんです』って__________



そう予定しながら、覗いたPC画面には。
コーヒーの湯気が燻る向こうに、届いたばかりの新着メール。






“麻布の店に連れて行くよ。”





図らずも、胸が鳴ったのは。

正解な返事よりも。
麻布が思わせる、極上の蟹料理のせい。


きっと、そのせい。