唇トラップ



逃げたい。けど今更逃げられない。

今朝までの意気込みはどうした、と自分を奮い立たせる。

全部ブチまけるんでしょう?私にも芽生えてしまった心変わりを、打ち明けるんでしょう?


それなのに、何度自分に言い聞かせても足が震える。
どう考えても、柊介に勝てる気がしない。みすみす喰われに駆け付けるようなもの。






柊介が立ち去ってからも、仕事に集中出来なくて。
先輩方からランチに誘われても、どうせ柊介とのことを囃し立てられると気が重くって。

ランチタイムで人気を失ったフロアで。一人、間食用に買っておいたフルーツバーを口にする。




手持ち無沙汰にタップした携帯に浮かび上がる、チョコレート色のチワワの写真。
無防備な半目に、思わずクスりと笑いが漏れる。
エリーの送ってくれたレオンの寝顔は、荒ぶった心を落ち着けた。



__________がんばらないと。ここで逃げたら、本当に何もかも意味がない。

背中を押してくれたエリーのためにも。

流されるな。踏ん張れ__________








少し、力が戻って来た気がして。

マウスをクリックしてPCを立ち上げると、時を同じくして新着メールのポップが開いた。



送信者は、“八坂蒼甫”

内容はごく簡素に、“これ開ける?”という一文と、どこかにリンクすると思われるURLアドレス。


何これ?

カーソルを移動させてクリックすれば、すぐに画面が飛んで開いた。
いくつか並んだフォルダの名前に目を通す。

これは__________営業企画部の、データベース?




『開けますよ?』

“じゃあこれは?”


即レスで届くのは、また似たような文面。
同じようにクリックすれば、同じように別の画面が開いた。


『開けますけど。』

“頼みがあんだけど。”



あん、だけど?
あるんだけど、の打ち間違いか。思わず話グセが出てしまったのか。

完璧モンスターの弱味を見てしまった気がして、悪い気がしない。


『なんですか?』

“ちょっと面倒だけどいいか?”




この人に関わって、面倒なのは承知の上だ。

だけど私、その面倒が嫌いじゃないし。




『何ですか?』


フルーツバーの屑が付いた手を、ゴミ箱にかざして払う。

どうやら午後から、忙しくなりそうだ。