唇トラップ



グッと顎先を持ち上げて見上げる。
溢れんばかりの慈しみを注ぐ眼差しを。少しでも撃退できるよう、唇を結んで。


それなのに。
あろうことか、愛しそうに耳に触れられた。


『ちょっ・・・!なに?!汗』

「ピアス。外れそうになってる。」


課内に向けてる右半身に、女子たちの息を飲む視線を感じる。
羨望が突き刺さってきて、痛い。

冷えた耳朶を弄ぶ柊介の手つきに、息苦しい。

それさえもきっと。
柊介の、思惑通り。



『なにか用?』


頬のすぐ横で揺れる、柊介の手の平。
追い払いたくて、口調を強めるのに。

ジャケットの手首裾から、香水が立ち上がってきて胸が苦しい。



「今日の夜の事なんだけど。
このまま外出して、帰社しないことになったんだ。十和子、一人で店まで来れる?」

『来れるよ。』


当たり前じゃない、子供じゃないんだから。

一挙手一投足を熱く見守る女子たちの視線が、苛立ちを煽る。
おかげで、おかしな日本語で返してしまった。




『お店はどこ?時間は?』

「19:30に、オーベルジュを予約してる。」



オー・・・ベル、ジュ。


騒ついた課内の気配。
誰もが憧れる、一流の聖地。



だけど、違う次元で私の心は取り上げられた。




だって、オーベルジュと言ったら。
私たちにとって、ただの高級フレンチなんかじゃなくて。




「誕生日、行けなかっただろう。」




誕生日のデートを執り行うはずだった、因縁の鬼門。



『なんでオーベルジュなの・・・。』


悔しいことに、声に力が入らない。柊介の思惑の黒さに、頭がついて行かない。

だって今日は、エリーの話を聞きたいんでしょう?
甘い雰囲気になんて、なれないはずでしょう?






長い指先が、耳朶から首筋に降りる。
親指だけを、さり気無く顎の下に添えて。

気後れする私が、目をそらさないように。この親指で、視線を固く固定して逃さない。
あとは、至極の微笑みで___________




「嫌?」




背中を伝う汗を感じた。

これは、柊介の情事に入る時の仕草だ。




まだ理性を捨て切れない私に。
嫌なわけなんかないって十二分に分かってていて繰り出す、殺し文句。


この仕草の恐ろしい意味を知らないオーディエンスたちは、これ以上にない感嘆で室内を埋め尽くした。
私は一人、溜息どころか息もつけない。


目をそらせない。
一見柔らかく見える親指には、自分に抑えつける杭のような力が入っているから。







生唾が、音を立てて流れ落ちた。

私は今夜。

きっとこの男に、取って喰われる。