唇トラップ



マスクが大きすぎるのか、この人の顔が小さすぎるのか。

いつもの色香漂う目元だけ覗かせて、その他はすっぽりマスクに隠されていた。



通り過ぎる、ほんの0.1秒。高い位置から私を見やった後。
スッと視線を元に戻して、足早に廣井さんの背中に付く。

片手をポケットに入れたまま、長いコートの裾を翻して。
小柄な廣井さんの背中に並ぶと、八坂さんは何もかもが際立つようだった。





「藤澤?」

エリーの声に、奪われた意識を取り戻す。
慌てて、エレベーターに乗り込んだエリーを追った。

ぼうっとしちゃった。
思わず、八坂さんが降りてきたから。



エリーに倣って、一番奥の壁に背をつける。
待ちわびた人々がどんどん乗り込んでくる。

一人でも多く乗せられるよう、細かに足を詰める人々の頭の向こう側。まだ八坂さんの背中が見えた。



マスク。花粉症かな?

それにしても、マスクさえもファッショナブルに見えるって何?
なんか芸能人みたいだったし。



エリーといる私を見て、何か思ったかな。
またフラフラしてるって思われたかな_________









『・・・!』



その、時。

再び奪われかけた意識は、すぐ隣から取り上げられた。

小指に、柔らかく巻き付いた感覚。


驚いて見上げれば、顔色一つ変えない涼しい横顔。
だけど私の視線に応えるように、小指の温かさは一層巻きつく力を強めた。







確かめなくても分かる。

エリーと今、手を繋いでいる。







満員のエレベーターの中で、小指で犯すスリル。
狭い面積だからこそ、全身の意識がそこに集中して。





八坂さんに引っ張られそうになった意識が、一瞬でエリーに取り戻された。

突如現れる、傍若無人。
普段のエリーは、こんな振る舞いをしないと十分知っているから。


そこまで欲されている現実に、甘い目眩が止まらない。













洗い物をしてもハンドクリームを塗っても。
その日一日、小指からエリーの気配が抜けなかった。


お気に入りのHACCI。ブリガリアンローズのハニー。ひと匙溶かしたホットミルクを飲んで、ベッドに入っても。
肌上を滑るマーガレットハウエルの肌触りさえ、いつもと違うようで落ち着かない。
寝返りを繰り返しては、ため息を吐く。



右手を持ち上げて、月明かりにかざす。

小指はここにあるのに、盗まれてしまったみたいだ。



明日は金曜日。
柊介と会う約束をしてるのに、小指がないままでは困るな。

そんなバカなことを考えていたら、なんだかおかしな夢を見た。








私は子供で、小さな子犬を抱いて走っている。
何故か、『柊介に取り上げられる』と焦りながら。

走り疲れて座り込んだら、子犬がペロペロと頬を舐めてきて、とても可愛くて。




「おいで」という声に顔を上げたら、マスク姿の八坂さん。

「誰にも付いて行くなって言ったろう。」

冷たい口調に相反して、マスクから覗く瞳は温かくって。
安心した私は、大きな手に子犬ごと抱き上げられた____________。