『記憶』





暑い夏が続いた。

その日は、例年にもないほどの猛暑だったという。

僕の記憶の中にも、確かに人々の汗やため息が残っているような気がする。

まあ、僕にはもう、関係のない話なのだけれど。


僕が忘れた世界。

君が忘れた僕。

僕らが失った、あの日。



ーー記憶ノートの1ページ。









夜風が優しく、僕の頬を撫でた。
蒸し暑かった今日の昼頃からは考えられない、涼し気な町並み。
出来ることなら、ここ最近の猛暑を忘れられるくらいの優しいこの夜の中で、いつまでも過ごしていたい。
だが僕にはそんな時間も方法もない。


ある日の夜。


僕はひとり、薄暗い部屋の中に居た。
その部屋には、何もなくて、誰もいない。
心細くなった僕は、しきりに誰かを探した。やっと見つけた人影に声をかけた時、僕は安心感に包まれた。
それが、僕の大切な君であったなら、どれほど嬉しかっだろう?

振り向いた人影は見知らぬ男だった。
男は僕を1度見て、小さく、嬉しそうに呟いた。

「おやおや、これは珍しいお客デスネ、、、。」

客?何の話だ?
ここは、もしや店なのか?

だが、僕以外に客らしき人物は見当たらない。開店していないというわけでもなさそうだ。
なんせ、ここにはこの男と僕。それ以外には誰もいないし、何も無い。
こんなにも何も無い店があってたまるか。

「そう言えば、マスターが貴方を探して居ましたよ。」

男は、クスクスと笑った。

「マスター?」

思わず聞き返した僕を見て、さらに男は口角を上げて笑い始めた。

「ええ。マスターがです。」

だが、男はそれ以上答えてくれない。
僕が聞いたのは、本当にマスターが僕を探していたのか?ではなく、マスターとは?という根本的な疑問だ。

「だから、マスターって?」

そのマスターという人物が、僕の知り合いである保証も無い。危険な人間かもしれない。だったら、今この場でその人物についてできる限り知っておこう。僕はそう考えた。


「それは、お教えできません。」

男は当たり前のように、言い放った。

「何で?」

「それは、貴方がマスターを覚えていらっしゃらなかったからです。」

その時だけ、そいつは僕を見てほんの少し悲しそうに、目を伏せた。

「マスターが知ったら悲しみますね。やはり、マスターのところへは行かない方が宜しいかと。」

「そこまで言われたら、気になるだろ!」

この男僕をからかっているのか?
ますます僕はマスターの正体が気になって男に詰め寄った。



その時、扉が開いた。
この薄暗さで全く存在感を放っていなかったそれが立てたキィ、、。という音に僕は、自分でも分かるほどびくついた。

「その心配は、要らないわ。幸助。」

その扉から、1人の少女が出てきた。
白く長い髪が、腰まであって目はこの闇の中でも、はっきりと分かるほど、赤く輝いていた。

少女は、数10センチも大きな僕に近づき、軽く背伸びをして言った。

「貴方が、私たちのことを、覚えていない事なんて想定内だ。」

冷静な瞳で言い放った少女だったが、その言葉にどこか怒りに似た、感情がある気がする。
流れから考えるに、この少女がマスターのようだ。