ぐらり、と、視界が歪んだ気がした。
僅かながらも絆されつつあるロイレイの、大元である種族と敵対しているから、という理由ではない。
長い間独りで漂い続け、人を殺めるという罪を犯し続け、猜疑心というものを大きく成長させていた<彼女>は、もっと根本的なもの、そして恐らく蛸が言いたいことを察して、冷水のなかに引き戻されたような心地になったのだ。
初めて会った日、あの人魚は、『たまたま迷い込んだ』と言っていた。
──だが、そんなことがあるのだろうか?
<彼女>の思考に寄り添うように、蛸はゆっくりと、言葉を投げかけてくる。
「人魚の連中はとっくに、ここらの入り江で人が死んでいることに気がついている。そして訝しんでいる。そんなところに、ただお前と仲良しこよしするために毎日毎日足繁く通うと思うか?」
蛸の言葉に触発されたように、初めての晩、それからこれまでの会話が、走馬灯のように駆け抜けていく。
本当は、ずっと疑問だった。
生活域が遠く離れている人魚が、どうしてこんなところまで来て、どうして『たまたま』迷い込んだのか。
絶えず取り囲む水流が変わるはずのこの入り江に、どうして毎夜現れるのか。
そして──邂逅から二日目の晩感じた、人間を捕まえ損ねてしまった原因の、あの強すぎる怒気の気配。
疑問だったはずなのに、心のどこかに蓋をして、気にしなくなっていたのはいつからだろう。
あの人魚を、ただの無害な存在だと思ってしまっていたのは、いつからだろう。
──ほんの少し、期待してしまっていたのは、いつからだろう。
「……思えない、わ」
呟くように漏れた声は、少しだけ掠れていた。
どこか遠くで、蛸が喉をつまらせたような笑い声をあげたのが聞こえた。


