そして、彼が岬に足を踏み出した時──

「……!」

ぼんやりとしていた光が急激に輝きを増して、まるで旅人を待ち侘びるように、歓迎するように、ゆらゆらと動き始めた。



 どうか こちらへ はやく となりへ



一層響いてくる声と旋律。

旅人は誘いに抵抗することを忘れてしまったように、ふらり、ふらりとさらに足を進めていく。

逃げ出さなければまずい、と、彼が思い出した時にはもう、足は岬の先の先、踏みしめる大地の無い中空に差し掛かっていて。



 いかないで ここへきて



突然、歌の一節がひときわ大きく、彼の耳許で響いた。

ガッ……

僅かにそんな音をたてて、支えを失った彼の足につられるように、重い体は空に投げ出された。

永遠のような数瞬、彼はようやく、今まで欠落させていた"恐怖"という感情を取り戻し。

「わ――……」

しかし、その叫び声すら伝わる前に、飛沫をたてて彼の身体は海に呑み込まれた。

薄らぐ意識の中、それでもまず彼がとらえたのは、痛いほどの"冷たさ"だった。

(冷たい──苦しい)

旅人は必死に腕を伸ばす。沈むまいと言うように、もしくは、誰かに助けを求めるように。

けれど、そんな努力とは裏腹に、彼の身体は鉛のように──否、強い力で引き摺られるように、深い深い海底へと沈んで行った。



 わたしはまた ひとり
 さびしいから ここへきて



彼の耳に、不気味なほどはっきりと、先ほどの歌が届く。

彼が沈んでゆけばゆくほど、まるで歓迎するかのように、歌は大きくなっていく。

──その時、水ばかりを掴んでいた彼の指が、偶然にも何かを捉えた。

藁にもすがる思いでそれを引く。寄せてよく見てみると、その手にある細いものは。

(草……?)

海の中、暗い水と蒼い光しか存在しないその空間には余りに不釣り合いな、それは緑の蔓だった。

よく見てみるとそれは指だけでなく脚にも……身体中にまとわりついていて、旅人の身体を水底へと誘っている。

(なんで……)

疑問の念は浮かぶものの、考える力も彼には残されていなかった。

口元から、大きな空気の塊が、ぼこり、泡となり吐き出された。





少しして、静かな海面を細かく波立たせていた泡も消えた頃。

どんよりたちこめていた雲は立ち消え、双子の月が姿をあらわした。

冷たい海の中、差し込んだ月光がゆっくりと "それ" ──深緑色の蔓と葉をもつ大きな植物を照らす。


暗い蒼が支配する海という世界には余りにも場違いなほど鮮やかな桃色の"花弁"が、何事もなかったかのように月の光を受けて揺らめいていた。