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<彼女>はまた、月を見上げる。

もう見飽きてしまうほど繰り返したこの行為。けれど、冷たく閉ざされた入り江の中、他に見るものなんてない。自然、気付けばまた、<彼女>の視線は宙に向かっている。

歌うこともまた、同じだった。

仲間が大切にしていた唄を、今の自分が歌っても良いのか。そんな罪悪感のような棘は、いつも心の片隅に刺さっている、けれど。

たった一人漂いながら、他にすることもない。気が遠くなるような時間の前に、小さな迷いや罪悪感は意味を為さなくて。

気が付けばまた、<彼女>は唄を歌っているのである。

(……やっぱり、昔のことなんて思い出すものじゃないわね)

<彼女>は月からようやく視線を離して胸の中でそう思う。心の色によって景色とは変わるもので、今日の月はいつもよりもいっそう、色褪せて歪んでいるように見えた。


──その時のことだった。

突然、<彼女>が巡らせていた蔓の先に、何かが、触れた。

(……え!?)

突然のことに、<彼女>の思考は止まる。そんな、あり得ない。ここには誰も、小魚さえもいないはずだから、蔓に何かが降れるなんてある筈がない。

けれどその感触は、岩や流木のそれとは明らかに違っていて、温かみがあって──生きているものの、それで。

(人間……!?)

唄は歌っていたけれど呼び寄せるものではなかった、第一落ちてきた水飛沫や衝撃もなかった。だから人間なんて今はいない筈で、けれど<彼女>には、それ以外の答えが思いつかなくて。

──気が付いたら反射のように、一瞬触れたそれを、<彼女>は逆に何本もの蔓を巻き付けて、水底へと沈めていた。