読み返して感じたことがある。

「なんだかずいぶんと大上段から構えたものやな」

と。

剣術でいうところ、竹刀を振り上げて構えているような感覚であろう。

通常なら正眼に構え、切っ先をちょんと動かすだけで斬れるようなところを、わざわざ動作を大きくしているような、そんな感じである。

別に簡単なことを難しく言う、役人にありがちな癖の名残りというのでもないと思うが、本人としては出来る限り的確な表現を目指すと、そうなる。

つまり。

裏返して考え合わせれば、日頃どれだけ曖昧な単語で日常を過ごしているか…という一事に尽きる。

しかし。

そうでもしなければ、人間関係に亀裂や齟齬を生じるから仕方のない話なのかも知れない。

この模糊たる言語は、主張するには不向きながら、機微をあらわすにはうってつけな言語でもある。

それは。

万葉集の巻頭にある、当時のナンパを表現した雄略天皇の御製を引くまでもなく、千数百年にわたって培われてきたヤマト言葉の特徴であり、また外国語にはないニュアンスと文化を持つ。

そうなると。

的確さを追究してゆくと、自然に表現は壮大になり、それが結果として大きく身構えたような、さながら大風呂敷でもひろげたような物言いになるのである。

これは宿命であろう。

当然ながら、大言壮語は嫌がられ、中には揚げ足を取るのが趣味のような人物まで出てくる。

この陰湿な気質も日本ならではなのだが、今のようなネチネチした気性は、少なくとも古代にはあまり見られないものであった。

資料にないのかも分からないが、知る限り古い日本は陽気であり、豪気であり、かつおおらかであった。

グローバル化のもと、こうしたおおらかさは失われつつある。

たかが言語と侮るなかれ、これからは「彼を知り己を知れば、百戦するともあやうからず」で、まず足元を知るのが大事なのではないか、と思う。

個人的に小説の書き方めいたものを、このエッセイでは書き留めた。

小説は才能ではない。

技術と体力と、素材を選ぶ心さえ揃えば誰でもある程度まで書けるものであると思う。

この巻はいわば、執筆の心構えの備忘録のようなものであるが、執筆の参考に役立てば、書いた側としては幸いに思う。