1980年5月15日、阿部祐太郎は若山年也として転生した、8月18日、横浜地裁、阿部祐太郎殺害事件の論告求刑公判、検察側は、大林が過去に知人の女性を殺害し現金を盗んだ、殺人と窃盗罪で服役(懲役15年)した前科があること、夢まで後一歩のところで命を奪われた被害者の無念は筆舌に尽くしがたく、遺族の処罰感情もしゅん烈を極めていること、命乞いをした被害者を強固な殺意に基づいて殺害していることなどを上げて、被害者1人でも極刑が相当だとして死刑を求刑した、10月6日、弁護側は、被害者は1名に留まり、深く反省しており、不幸な生い立ちを主張して死刑回避を求め結審した、12月19日、第25回公判、横浜地裁は2度に渡り殺人を繰り返し、前回以上に悪質化しており、深く反省していても死刑が相当とし死刑判決を下した、弁護側は即日控訴した、1981年2月3日、東京高裁で控訴審が始まった、東京高裁は集中審理方式を採用し、弁護側は不幸な生い立ちや深い反省などの有利な事情をさらに立証していた、公判は40回に及んだ、翌年、5月29日、東京高裁は判決言い渡しで主文を後回しにしたうえで、死刑とした一審判決について重すぎるとはいえないとしながらも、本人なりに反省を深め、不幸な生い立ちも事件に影響しているとし、現時点では一審判決は重すぎるとし死刑とした横浜地裁判決を取り消し無期懲役の判決を下した、大林は判決を受け入れたが、検察側は無期懲役は軽すぎて不当として異例の上告に踏み切った、11月9日、理子の生まれ変わりである年也の妹麻衣が生まれる、1983年5月26日、最高裁は弁論を開いたが、7月2日、検察側の上告を棄却した、判決で最高裁は死刑適用には、被害者1名の場合は殺人前科は大きく考慮すべきだが、死刑を選択するにはその他の要素で相当悪質性が必要との判断を示した、また最高裁は仮釈放は認めるべきでないと付け加えた、これにより大林良太の無期懲役が確定した、大林は岐阜刑務所に服役している、1985年3月11日、広島高裁は光市一家殺害と組員射殺事件で山口地裁判決(1980年9月8日)で死刑とされた中森被告の控訴を棄却した、中森は最高裁に上告したが、1990年3月29日に最高裁は中森の上告を棄却した、4月12日付けで訂正申し立てを退け中森の死刑が確定した、