僕は髪の毛に触れた手を嗅いでみた。無味無臭だった。おっと、無味とはいっても舐めてはいない。言葉というのは勢いで発してしまうが、可愛さ余って憎さ百倍、そう訂正だ。まあ、そんな時があってもいいだろう。
 そんな時。
 チン。
 僕に階数表示を見上げ、扉を見た。扉は引き締めた唇のように閉まったままだ。蛾がこの場の状況を楽しんでいるかのように弧を描きながら僕の頭上で旋回していた。イメージを膨らませれば天使の輪でもあり、さらなるイメージを湧き起こせば、こんにちは、と蛾が円を描く度に言っている気がした。
 僕はいつもの癖で、右ポケットに右手を入れ、さらには左ポケットにも左手を入れた。