ピュア・ラブ

橘君は、私が落ち着くまで暫く居てくれた。
私は、自分のことばかりを考えていたが、橘君をみると、病院着と大きなカバンを持っていた。もしかしたら、何かあったのかもしれない、私は、それを引き止めてしまったのではないか。不安になった。

「あの、何処かに?」
「え? ああ、鞄ね。往診の帰りなんだ」

病院は往診もしているのか、それは大変だ。

「往診はしてないんだけど、足の悪いおばあさんがいてね。飼っているイヌも老犬なんだ。イヌも歩くのが大変になって、特別に往診」
「そう、大変ね」
「弟が大学を卒業して、病院で診察するようになったら、往診も視野に入れているんだ。病気の子たちが増えない方がいいんだけど、経営は難しいよね」
「そうね」

歯医者も多いと思っていたが、動物病院も経営は大変なのだな。家族で病院を盛り立てれば、きっといい病院になるだろう。
私に将来の夢はなかった。小学校の作文にありがちな「将来の夢」。私は、いまでもその書いた内容を覚えている。「勉強を沢山して早く自立すること」そう言う内容の作文をかいた。文章構成は良かったが、何かなりたい職業はないのかと、担任に聞かれたものだ。
職業などどうでもよかった。とにかく早く一人で暮らせるだけの金と社会保障があれば、何でもよかった。
今こうして、落ち着いて生活が出来ているが、考えてみてもなりたい職業は思い当たらない。

「黒川は、こんな時間にどうしてあそこに?」
「ホームセンターにモモのトイレの砂を買いに」
「夜じゃなくても良かっただろう」
「会社の忘年会の帰りだったの、ついでに」
「……ねえ、黒川は何処で働いてるの?」
「あの先の工場」
「はっ?」

私は、冷めてしまったお茶を淹れなおす為に台所に立った。
電気ポットにもう一度水を入れてスイッチを押した。
湧くまでの間、沈黙があった。
橘君は、成績がよくて、所謂、六大学に行った私は、いい職業に付いていると思っていたに違いない。
電気ポットが、カチッと押したスイッチが戻る音がして、湧いた事を知らせる。
急須にお湯を入れて、部屋に戻った。

「ありがとう」
「私は、毎日、白衣と帽子、マスクと手袋をつけて、目だけしか開いていない防具を着て、生地をこねたり、生クリームを絞ったりと、単純な流れ作業をして、残業もなく帰って来るの。橘君が思っているほど、私は、優秀じゃないわ。私にはそれがあってるの」

橘君が聞きたくても聞けないだろうと思い、自分から説明をした。
就職の面接が嫌だった。とにかく人と接しないことを条件に探した。この世に人と接しない仕事など存在しないだろうが、必死に職業の種類を調べた。他の学生が、必死で、国家公務員、上場の企業や名の通った会社を探している傍らで、私は、異色だった。
面接は今勤めている一社しか受けなかった。面接だけ印象よくすれば大丈夫だと、自分に言い聞かせ、なんとか通過した。
大学でも、「どうして」と何度も言われたが、私は、それでいいのだと、譲らなかった。
橘君は、納得の行っていないような顔をしていたが、それ以上何も聞いてこなかった。