まだ、葦海が高校生になったばかりの頃、


学校に教育実習生として赴任してきた担任のサポート役だった女性教員がいた。


一目見て、電気が走った。


手入れの行き届いた長い髪。白いワンピースに身を包んだ、


話しかけると消えてしまいそうな女性だった。


ましてや、自分のようなガサツな子供が頑張ったところで、

相手にもされないだろう。そう思い込んでいた。


ある日の夕暮れ時、近所の公園から出てきたフェンス沿いに歩いているところを見かけた葦海。


あっと思う間もなく目の前で車に突っ込まれ、挟まれた。即死だった。



居眠り運転だったらしい。



あまりのショックと恐怖に涙すら出ず、


一晩中眠れなかった。


うとうと落ちては、うなされた。

冷や汗をびっしょりかいていた。

そんな日が一週間続いた。


けれど、ただ現場に花を手向け、拝むしかできなかった。



忘れてしまいたいのに。


昨日のことのように焼き付いて、離れなくなっていた。


まだ子供だった葦海には衝撃が辛すぎた。


そしてもう恋はしないだろう、
と心の底から思った。


「酔っぱらって涙もろくなるんは年いった証拠や」


またからかわれる。


「どっちなんですか!永遠の中2なんか、オヤジなんか」


「両方や。けったいな奴やのう」

***

翌日昼休み、


担当教師に頼まれた次の授業で使う資料のファイルを抱え、
逢と二人で教員室を出た笑結。


腰を痛めた事務員の代わりにせっせと、校舎内外の掃除に励んでいた葦海。


居合わせた李季がふと企み、


二人が来たことを見計らって、モップのバケツにつまづき、
目の前で葦海に抱きついた。


「あ〜ら!ごめん遊ばせ」


抱えていたファイルを落とし、数枚のプリントが落ちて舞う。


目を合わさずに慌てて拾い集め、ファイルを持ち直すと、うつむいたまますり抜けた。


「笑結姫!!」


二人をキッと睨むと逢が追いかけた。



「大丈夫か?笑結姫」


「えっ…なにが?」


目の前で、ぱん、と手を叩かれ、はっ、とする笑結。


まだひと口目のすっかり冷めてしまった弁当のミートボールを、挟んだ箸を口の前で止め、


固まったままの笑結。


高校生でこんなにミートボールが似合う姿も珍しい。


「ずーっとぼんやりしていると、食べてしまうぞ」


逢から話を聞いていた悠が、心配していた。


「あの男が、気になるのか?」


「そ!そんなわけないじゃん!!なな、何いっちゃってんの!?」


あからさまに動揺し、勢いでミートボールを口に頬張りむせる。


ぱん、ぱん、と背中を叩く逢。


ステンレスマグを差し出す悠。


「…あ、ありがと…ごめん」


咳き込む笑結の背中を擦りながら、


「一応、追いかけようとはしておった。何を考えておるのだか」


「か、関係ないから!あいつが誰となにしてようが!!」


「無理するな。お主は顔に出やすい。分かりやすすぎる」


むぅーと膨れる。


「ただ、姫を泣かせたり傷つけたら、ただではおかん」


うんうんと頷く二人。
その言葉に思わず涙が出た。


「おおう!今泣くでない」


「だって、嬉しいよう。二人とも大好きだよう」


ぐしぐしと泣き、よしよしと頭を撫でられる。本当に小学生のようだ。


「今こそ部活をサボるときだ。笑結姫、いっそバレー部に見学に来なさい」



「いた、先輩」


休憩時間、戻し忘れていた資料を返しに、教員室横の資料室に入りかけ、

同じく資料を取りに来た鳶川に呼び止められる。


「今日来ますよね?部活。聞きたいことがあって」


「なに?」


なんとなく元気のない笑結に、


「どうかしました?」


「えっ…なにが?」


「いや、なんとなく、元気なさそうだから」


「そ、そんなことないよ?元気元気!」


あからさまな空元気で腕をブンブン振って見せる。


「いた…」


目にゴミが入ってしまったようだ。


「あっ、先輩こっちへ。僕目薬持ってます」


洗い流せるかもしれないと。


今日も強く吹く風が冷たく、
昼過ぎから曇り始めた空は、今にも雨が降りそうで、
廊下も薄暗かった。


資料室に入り電気を点け入り口で止まる。


「寒っ…」


裏庭から教員室に近い裏口があり、裏で作業をしていた葦海が

寒さに身を縮め、アルミのドアを開け中に入りかける。


絶妙な二人の角度はまさに、
キスをしているように見えた。


あまりの衝撃的な光景に、見てはいけないものを見てしまった、と。

反射的に外に飛び出し、壁に手をつく。


ぶるぶるっと頭を振り、声も出ずに口を押さえる。


「何?何?!何??」


ぎゅうっと胸が締め付けられ、無性に腹立たしい感覚に襲われたが、

それが目の前にいる二人に対する嫉妬だと思いもしない葦海は、
パニックになる。


「いてて…なんやこれ?ていうかあいつ何してんねん!

自分は人前でどうのとか言うてたくせに!いやいや、そんなことより、

相手、何とかいう後輩やんけ!」


『惚れたな』


ふいに護浦の言葉が頭をよぎる。

「ないないない!!んなわけあるかい!!」


けれど二人の様子が気になってしかたがない。


『キスというものは好きなもの同士の意思表示で』


という笑結の言葉も頭をよぎる。

「あいつは先輩が好きなんと違うんかい!どういうことや!?」


すっかり入るタイミングを逃してしまった。

モヤモヤしながらチラチラ見るが、

中からはその姿は見えない。


「いつまで引っ付いてんねん!くそ!ミケ子いじってええんは俺だけやのに!」


ふと、千里が現れ二人を引き剥がした。


「おっ?」


「何してんだよ」


鳶川に詰め寄る千里。


「あっ、め、目にゴミが。だから目薬で洗おうと…あ、あれ?」


慌てた鳶川が手にしていた目薬を落とし、棚の下に滑り込ませてしまう。


千里の気迫に、言い訳もできなくなり、おろおろする。


「あっ、本当よ?ありがとう。鳶川くん」


こんなに近付いき、触れられていたのに、全くドキドキしない。


なぜだろうと、笑結は不思議だったが、


鳶川を異性として見ていない、見る気もないということで、

本人が知ったらショックで寝込んでしまうかもしれない。


「千里くんこそ、何そんなに怒ってるの?」


葦海同様、勘違いしていたことに気付いた千里は少し赤くなり、


ちっ、と舌打ちすると、


「この際だから」


と、まさに二人の前で笑結の顎を上げ、

見せ付けるようにキスをした。


あまりにも自然で、突然のキスに、笑結も目を見開いて固まる。


どうせ葦海もどこかで見ているだろうと。


「な…」


もちろん葦海もしっかりと見ていた。


ふっ、と離れると、


「そういうことだから、彼女には近付かないでもらえませんか」


冷たい目で鳶川を睨む。


「ごご、ごめんなさい!!」


あまりの威圧感に、泣きそうな顔でそれだけ言うのが精一杯だった。

「なにしてるんですか?」


女性教員に背後から声を掛けられ、

驚いてガバッと振り向く葦海。


「えええ!?い、いや!?なんも!?」


イタズラが見つかった子供のように、覗き見を指摘されたようで
慌てふためき、咳払いでごまかす。


「げほげほ!!なんも、なんも、ないですよ?はは、さてと」


かなり挙動不審だった。