「…わかりました。わかりましたよ。謝ったらええんでしょう」


しふしぶ。


「どの道、今まで通りってわけにはいかんやろうけど、

他のモンスターに騒がれる前に、誠意を表して距離を保つこと。

教員としての信用を取り戻すんやな、
あっさりクビ切られて、ほなさいなら、ってなる前に」


人の親になっただけのことはある。

今がどういう時代で、


一教員が迂闊なことをするとどれだけの騒ぎになるか。


よく知っていた。


***

「あら、今日は早いのね」


いつもなら起こしてもなかなか起きない笑結に母が。


目覚ましも早めにセットし、
一本早いバスに乗り換えた笑結。

先輩に会えないのは寂しかったが、葦海の顔をもう見たくなかった。

怖かった。


元から考えの読めない男だったが、さらに何を考えているのか混乱していた。


壁ドン。


男子が好きな女子にするものだとテレビや雑誌で見たことがある。

そしてそれは、少なからず相手が自分を好きなことを前提に、


もしくは誰もが認めるイケメン限定で許されたこと。


そう、まさに先輩のような。


嫌われているのにやってしまうと逆効果になる。


笑結ももちろん多望に漏れず、
憧れていた。


画面で見ても、きゅんきゅんするシチュエーションだ。


忘れかけていたが、
そういえば、お姫様抱っこもされていた。


葦海なのに。


なぜか、嫌いと言ったのに、

嫌いなのに、嫌いになれない。


先輩が好きなはずなのに。


なにかあると、ずきずきした。


そして、あのときも。


心臓が。

ばくばくした。

口から出るかと思うほど。

それなのに。



それなのに。


あのシチュエーションで。


お前のことが大嫌いだ、虐め倒す。

とまで。


意味がわからない。


そもそも関西人の虐めるは、

というか葦海の『虐める』は、


子供のいたずら、スカート捲りのようなもので、


そんな重い意味はもちろんなかった。


が、笑結にしてみれば恐怖でしかなかった。



「どうしたのだ?笑結姫。今日はやけに早いな」


朝練終わりの悠が首に掛けたタオルで汗を拭きながら体育館から出てきた。


「うん?どうした?クマが出来ておるぞ?」


「どうした?おお、姫ではないか」

悠が顔を近づけクマを見ていると、同様に汗を拭きながら逢が出てきた。


「なっ、なんでもない!!なんでもないから!!」


ここまでわかりやすいと返って困る。


「奴に何かされたのか」


真面目なトーンに、ぴくりと反応してしまう。


「ほ、本当に、なんでもないから!!大丈夫!!」


逃げるように校舎に飛び込む笑結。


「…怪しい」


「彼奴が来たら問い詰めるぞ、悠」

着替えて玄関で待っていると、少しして葦海が来た。


「…その様子では、ミケ子、来てるようやな。休んだかと思った」

心なしか大人しく、いつもと空気が違った。


「どういう意味だ」


「やっぱり何かしたのか貴様!?」


「…べ、別に」


思わず目を逸らす。


「あとで直接話すから。お前らには関係ないことや」


逢が胸ぐらを掴む。


「やめなって!!」


悠が慌てて止めに入る。


「関係ないことあるか!!姫は大事な友達だ!!何をした!?傷付けたらただではおかんぞ!?」


「…ちゃんと、謝るから!わかってるから。……悪いことしたと思ってるわ」


「やはりあのとき、きちんと部室まで見届けるべきだった!
いや、いっそ休ませるべきだった」


涙ぐみ、掴んだ襟首を乱暴に離す。自分を責め、拳を震わせる逢。

咳き込む葦海。


「……嫌いやからいじめたるって、言うただけや」


ふて腐れ、ぼそっと。


「はあ!?そのまま取ったら、虐待だわな。お主はどこまでウツケだ!?」


「いや、虐待て。大袈裟な」


やっぱりそうなってしまうのか?と、理不尽そうな葦海。


「お主は、モンスターの怖さを知らなさすぎる。


姫がご両親に、お主にとって都合の悪いように伝えていないことを祈るばかりだな。

そうなればクビになるのも時間の問題だ」


腰に手を当て、首を回す悠。彼女は冷静だった。


「ゴウさんと同じこと言いよって」

子供に子供扱いされ拗ねる。


「ゴウさん?」


「いや、こっちの話や。それよりあいつ、大丈夫そうか」


「クマができておったわ、バカ者」

「お主こそ、姫の本気を知らんからそんな悠長に構えていられるのだ」


「…?それはどういう…?」


予鈴が鳴った。



***

いつも通り笑結を廊下で見掛けた葦海。


「あっ、なあ」


声を掛けても足早に逃げるか、
手前で曲がる。


もしくはあえて数人に紛れて歩いた。


何度見かけても、声を掛けようとしても、避けられ、すり抜けられた。


本能的に嫌なものを避ける猫のように、


一ミリたりとも隙がなかった。


本気の猫は、


そんなに?と驚くほど、きれいにすり抜ける。毛先すら触れさせない。


もちろん部活にも出なかった。


昨日まで当たり前のように襟首を掴んだり、頬をつねっていたのが嘘のように。


そんなときに限って、鳶川や千里と楽しそうに話す姿が視界に入った。


普通に廊下で会い、普通に話していただけなのに、


触れることすらできなくなってしまった今の葦海には、

やたら楽しそうに見え、苛立ちが募っていた。


逢たちは付き合いが長く、そうなることは予想できた。


こういうことだったのだ。



中学の入学式の日、


父の車の故障で、路肩で止まってしまい、遅刻しかけた笑結。


同じ制服姿の笑結を見かけ、母の車で通りかかった逢が声をかけ、

同乗させてもらって、なんとか間に合ったのだった。


人見知りがちだった笑結の手を引いて、誘いに来て一緒に登校するようになり、仲良くなった。


高校に入り、逢はバレー部に入った。悠と一緒になり、衝突しながら仲良くなっていた。


運動音痴の笑結は、諦めざるを得ず、一人仲間外れにされた気がした嫉妬から、

一時期、逢さえも避けた。


悔しかった。


自分が先に友達になったのにと。

そのときまさに今の状態だったのだ。


どうでもいい相手なら、それで終わるだろうけれど。


ある日、不意打ちで家に押し掛け、逃げ場をなくし、ようやく話ができた。


二人にとってはそれだけ大事な友達だったのだ。



「ええ加減にせえよ」


翌日の放課後。


痺れを切らした葦海が、正面玄関から出てくる姿を確かめ、

正門の陰に隠れて待ち伏せし、笑結の腕を掴んだ。


さすがに少し気を抜いていたようで、抵抗もなく捕まえられた。


外門沿いに裏口に引っ張っていく。

たった二日だったが、とてつもなく長く感じた。


やっと掴めた腕の感触は柔らかく、妙にほっとした葦海。


けれどやはり、無言で腕を振りほどき、去ろうとする。


「部活は、出ろよ。なあ」


「やめます」


「はっ!?」


「ですから、部活、辞めます。それでいいんでしょう?」


人形のように無表情に口だけ動かす笑結。


まだ出会って日は浅いけれど、
あんなに喜怒哀楽のはっきりした少女が、別人に見えた。


「いや、それは…」


葦海も動揺し、言葉が出ない。


「他の部員にも迷惑が掛かりますし。いつまでもこんなことしてると」


「だから、その、……ごめんて」

「よく考えての結論です。元もと楽器もそこまで好きじゃないし、
指導をする先生もやりにくいでしょうし、私のわがままなんで」