「その彼女とは、どうなったんですか?」
 湯気のむこうに、一瞬寄席が見えたような気がした。
「銭湯の回数券をくれるまでになったよ」
「ドラマですか?」
 うまくいきすぎだろう!
 笑ってしまった。
 彼女はそのときの、真打の娘さんだったらしい。ネタがまた「時そば」。
 観終わったあとの双葉さんは、落語への感慨と、そばへの貪欲なまでの食欲、彼女への興味で身体中がおかしくなっていた。嵐のように吹きあれていた。
「初めてのことばかりだったから、何も把握できなかった。後から思いだしてやっとあれは感動だったんだとか、あれが食欲だったんだとか。すこしずつわかったんだ。なんもかんも発見だった」
 双葉さんは、今でもよくわかってないように言う。
「双葉さん。その時点まで、本当に、食欲も笑いも性欲もなかったんですか?」
 想像できない。
「そのときはあったと思ってたよ。でも「本物」を経験した後では、なかったと言わざるをえない。ずっと何かに追いたてられて、セカセカしてたんだ。人の許せないところばっかり目についた。同級生の悪いとことか許せないとことか、いちいちみつけて糾弾してたんだ。そりゃ嫌われるよ。本物の「笑い」が入る余地はなかった。性欲も。エロ動画とか、すごく見てたんだけど、パトロールに近かった。毎日巡回して、「けしからん」みたいに。いらだってた。笑いも性も食欲も、まっすぐに捉えたり、迎えいれたりできなかったんだ」
「中二病ですか」
「うん……」
 双葉さんは恥ずかしそう。
「何かがないことに、ないって気づけるのも、あたりまえじゃないんだ。幸運だった。それが俺の教訓」
 湯で顔をぬぐった。長湯した僕たちは、まっ赤になっていた。
「そろそろ出ようか」

 きがえながら、僕は双葉さんに訊いた。
 三つ、ききたいことがある。
「もし、落語に出会わなくて、その宗教の方にいってたら、どうなってたんですかね?」
「笑いと食欲はなかっただろうね。性欲はあったかもしれないけど、幸せな発見とはちがったかもしれない」
「落語に出会うまえの生活に戻ることって、あると思います?だって食欲も笑いも性欲も、とつぜん得たわけでしょう。とつぜん失うこともあるかもしれない」
「たしかに。そう思うと怖い。だから落語の技術と、おかしさを身体にいれておくんだ。面白いと思えなくなっても思いだせるように。思いだせるだけ、まだいいだろ」
 銭湯をでると、街灯がともっていた。
「でも、これがひとつの噺だったらいいよなぁ。俺はすごくまぬけな人物で、落語にぴったりだろ。どういうオチにするかって、いまかんがえてるんだ」
 


 最後にききたいこと。
 それは教祖との関係だった。

 話を聞いていて、血縁者なのかと思ったのだ。
 でもさすがにそれは訊けなかった。もし血縁者だったら、いや、そうでなくてもお金をもらったのだから、彼の人生にこれから干渉してくるかもしれない。そうならないよう、彼の祖母のいうとおり、僕は祈ることにした。