『ありがとう。さっちゃん。でも、もう遅いから。』

光くんママはそう言ったけど、私は完全にその気になっていた。

「いえ、行きます。アトリエの鍵、持ってるし。すぐ行ってみます。」

すると、少しの間をおいて、光くんママがぼやいた。

『……どうしよう。オトナとしては断るべきなんだけど…』
「行きます!」

私はそう宣言して、電話を切ると、部屋を飛び出した。

「ママ!パパのとこ行ってくる!」

ママの返事を聞かずに飛び出した。
心の中で、ごめんなさい!と叫びながら……。


マンションを出ると、思ってた以上に寒かった。
まだコートとか出してなかったんだけど……。
走れば、すぐ熱くなるよね。

私は、発熱してたことも忘れて走り出した。

……たぶん悪寒だったんだろうけど、今の私には何よりも光くんが大事だった。

1.2kmほどの距離だけど10分ぐらいで到着できた。

アトリエの二階に光がともっていた。
昼光色のシーリングライトじゃない。
たぶん、光くんの好きなドームのランプ。
分厚い濁ったガラスをぼんやりと照らす温かい電球色を、光くんは偏愛している。

……私には何のこだわりもないんだけど……確かに夕焼けのような赤っぽい電球は光くんをいつも以上に美しく魅せて……。

走って来た鼓動だけじゃないドキドキが加わった。

やっぱり、いる……。

光くん?
明田先生?

野木さんは、今日は帰るって言ってた。

……椿さんは結局このアトリエを逢瀬に使ってないし。

玄関戸を開けようとしたけれど、鍵がかかっていて動かなかった。
ざわざわと、嫌な胸騒ぎを覚えた。

どうしよう。
光くんママを待って一緒に入ったほうがいいかしら。

……多少の逡巡はあったけれど、私は意を決して鍵を開けた。

いつもよりそーっとドアを開けて、そーっとアトリエに入る。
真っ暗なアトリエを横目に、薄ぼんやりしてる階段を上がる。
廊下を進んで、灯りの漏れてる部屋の襖戸の前に立った。

声をかけるべきか否か……。

しばしためらって、少しだけ覗いてみてから、声をかけて戸を開き直そう、と決めた。

慎重に襖に手を掛ける。

古い家の建具は全て重くて大きい。
パパはこのアトリエを貸してくれる時、襖の敷居を全て軽いレール仕様に取り替えてくれた。
そして、玄関とトイレ以外の鍵を全てふさいだ。

……パパの思惑は、完全個室になれないこのアトリエから椿さんと菊地先輩を遠ざけ、野木さんの毒牙から明田先生を守っているんだけど……

音もなく開いた僅かな隙間に目をくっつける。

いた!
光くんだ!

……寝てる……。