バウンス・ベイビー!



 北浦さんはそう明るく言って、ぱぱっとエプロンを羽織る。私は心の中で田内さんに土下座して感謝をし、包丁を研ぎにかかる。仕込みの速さは包丁の研ぎ具合にかかっている。それだけは断言出来る。気をつけて研ぎながら、できるだけ平野を見ないようにした。

 見ないように。

 ヤツを見ないように!

 ・・・見ないよーうにしていても・・・つい頭を過る。あの唇が、私の唇にひっついたんだ!って。やつがどこにいてどんな体勢をしていようが、私の目はつい平野の唇を探して飛んでいきそうだった。

 ヤツは自分の台へといき、黙って支度をしている。その隣で田内さんも黙々と手を動かしていた。今日は井戸端会議をする相手がいないから辛いわ~などと言いながら、賑やかに北浦さんも仕事を始める。

 ゆっくり深呼吸をした。

 目は包丁に釘付けになりながら、私の頭の中ではさっきの話が繰り返されて流れ出した。

 6年前。

 2月の冷たい風、それから風花と呼ばれるさらさらと振ってくる灰色の雪。校舎の中で鐘が鳴っていた。

 ねえ平野。そう呼びかけた私に振り向いて、あの時の平野は目を細めた。吹雪というほどではなかったけれど、視界の邪魔になるくらいには雪が降っていた。

 まずは合格おめでとう、そう言ったと思う。よかったね、と。自分は落ちたので心は痛かった。だけど平野は自分が希望していた大学に受かっていたし、それは素敵なことだった。だからそう言ったのだ。だけど、平野は黙って私を見ているだけだった。