そっと屈んで、稚秋の首筋にカッターをつきたてた。
このまま振り下ろせば、稚秋は誰のものにもならない。

そしてアタシは消えてなくなるはずで。
誰も幸せになんかならない。

ハッピーエンドでなくていい。
あなたがいない世界で、幸せなんていらない。


ちりっとナイフの先が稚秋の首筋を傷つけた。
鮮血が滴り落ちる。

もう少し深く、突き刺すだけなのに。
手が震えて上手く動かない。

どうして、
どうして、

何も叶わない。



「刺せよ。……早く、刺せ」


伏せられていたはずの稚秋の瞳がいつの間にかこちらを見ていた。


「……なんで抵抗しないのよ」
「そんなに泣いてるやつに、殺せる勇気があるわけないから」
「ばかじゃ……」


ばかじゃないの? そう言い終わる前に憂姫の躯は稚秋に包み込まれていた。
強く抱きしめられた腕に、涙だけが溢れる。

カランと、乾いた音と共に憂姫の手からカッターナイフが滑り落ちた。


「オレを殺そうとするぐらいの勇気があるんなら、言えるだろ?」


死んでもいいと思った。
消えてなくなってもいいと思った。

……稚秋を殺してしまうぐらいなら。


最愛の人が殺せるわけがないのだ。
それぐらい、初めから分かってたのに。


「好き。稚秋が好き……っ」





「知ってる」






憂姫の頭を撫でた稚秋を見つめると、稚秋がくすっと笑った。


もしもあの王子様が本物の人魚姫と偽者を間違ってさえいなければ、彼女は泡にならなくてすんだのかもしれない。
なら、王子様が本物の人魚姫と偽者を間違っていなければ、偽者はどうなっていたんだろう。




「美姫とは……付き合ってないの?」
「誰だよ、それ」
「……え?」




もしかしたら、初めから偽者なんていなかったのかも知れない。
だってそれはきっと、不安で、不安で堪らなくなった本物が作り出した『リアル』なのだから。