「悪い、紬に対してじゃない」


 頭がガンガン響く。堰を切ったように、言葉がついて出た。


「この家族は、みんな逃げてる」

「え?」

「いくらでもお互いの悪口言えばいい。他に吐け口ないならさ。聞くよ、いくらでも。だけど」

 父さんが立ち上がる。今にも怒鳴りそうな雰囲気だ。それでも、一種の高揚感が私の体温を上げた。


「私だって…2人と関係ないところで耐えてる。私だって…必死なんだよ!」


 父さんは眉間にしわを寄せていた。かなり、戸惑っているように見えた。

「…ごめんな、今のは…悪かった」

 父さんの窶れた顔を見て、私は居たたまれなくなった。

 ため息をついてリビングを出る。自分の部屋に戻り鍵を取って、玄関に向かった。父さんの足音が後ろから聞こえる。


「おい、どこ行くんだ」

「コンビニ」


 靴をかかとで潰して、父さんの顔も見ずにドアを押した。外の匂いを感じながらドアを閉めて、鍵をかける。パーカーに鍵を入れて、ゆっくりと歩き出した。

「……疲れた」

 感情を表に出すというのも、消耗するのだ。階段を降りて、団地のエントランスを抜ける。一本道を歩くと、すぐ先に自販機が見えた。

 自販機の後ろは、緑のフェンスで囲まれた小さい公園になっている。喉が渇いた。コンビニまで行く気力がない。ポケットをまさぐったものの、肝心の財布を忘れたことに気づく。馬鹿なのか、私は。

 結局行くあてもないので、公園の中に入った。遊具が砂場に小さい滑り台、ベンチ一台しかない小さい公園だ。

 篭った風が顔を撫ぜる。生暖かい風だ。長袖のパーカーはもう季節外れだ。そういえば、梅雨明けも間近だと、さっき天気予報が言っていた。蝉の鳴き声がわんさか聴こえてくる。


 ベンチに腰掛けて、何とは無しに空を見上げた。

 星なんか見えない。縮れた雲と、緑がかった都会の濁った暗い青だ。

 おばあちゃんの家なら見えた。今は馴染みのない叔母さん夫婦が住んでいる、帰省先だった家のことだ。

 中3の春、進路希望調査書に書いた、祖母の家の近くの高校に、私は本気で通うつもりでいた。

 秋の進路希望調査書には、書けなかった。ばあちゃんは、急な脳溢血で、中学最後の夏休みに死んだ。この街からの脱出計画は、3年前、失敗に終わったわけだ。

 否応無しに進路選択はすぐ目の前にやってくる。そうだ、逃げられない。人生の波には誰も逆らえない。


「見えないよ……何も」


 首元が汗ばむ。覚悟なんて無いのに。刻一刻と迫り来る。

 立ち止まっている暇なんか、くれないらしい。