彼は誰時のブルース



 何故か一粒、涙が溢れた。


 宇野の後ろ姿を、ただ眺めた。中学の時、団地に帰っていく宇野の後ろ姿を思い出した。言い捨てていった言葉は真逆だ。でも、どちらも本音のような気もした。

 でもさ、肝心なこと、まだ言えてないでしょう。
 これで、終わりなの?

 宇野は決して振り返らない。彼が曲がり角に消えるまで、ただずっと突っ立っていた。









「ただいま」


 靴を脱ぐために屈んだとき、部屋が暗いことに気付いた。いつもならいるはずの母の姿がなかった。


「母さん?」

 母の靴はなく代わりに父の靴がきっちりと並べられていた。父はいつもより早く帰ってきたようだ。返事もないので、自分の部屋で寝ているかお酒でも買いに行ってるんだろう。

 買い物かな。私が帰宅する頃にはいつも夕飯の支度をしているのに。廊下の先のリビングの明かりは消え、夕飯の匂いもなく静かだった。

 嫌な予感がした。スカートのポケットに入った携帯を取り出す。案の定、一件のメールが来ていた。



『しばらく実家にいます』


 母からのメッセージだった。

「…………」

 画面を睨みつつも、無駄だと携帯を閉じた。自分の部屋に入ると、机にカバンを投げ置いてベットに横になった。 
 
 またか。母の"家出癖"をすっかり忘れていた。父さんと喧嘩をすると、必ず実家に帰る。去年は特に頻繁だった。最近は母さんも踏ん張っていたのに。

 空腹を感じる。だけど今から作る気にはなれなかった。買いに行くのも面倒だ。今日は抜いてしまおう。


「紬、おかえり」

という声にドアが開いて、突然父さんが入ってきた。ネクタイが緩まってシャツがくしゃくしゃなところを見るに、帰ってきてそのまま寝たんだろう。

 几帳面な父さんにしては滅多にない姿に、私はすぐに反応できなかった。身体を起こして、「ただいま」と小さく返した。


「牛丼買った。冷蔵庫に入ってる」

「ありがと」

「あいつ、実家に行った。家のこと、出来る範囲でいいから頼むな」

「…ん」


 言いたいことを言った父さんは、ドアを閉めて自分の部屋に戻っていく。いつからだろう。父さんが私の前で、母さんのことを"あいつ"と呼ぶようになったのは。

 携帯を見ると、受信時刻は午後2時過ぎだった。昼下がり、"あいつ"はどうして出て行ったんだろう。