声も出なかった。

 近づいて来た母親は机の上の皿に盛られた自分の作った甘ったるいクッキーを掴んで、俺の口に叩き入れた。すぐ後ろのソファに押し込まれるように羽交い締めにされる。

「あんたは!重役の父親の息子なの!こんな小汚い団地じゃない本当は!向こうの住宅街に!住むはずだったのに!!」

 咳き込む暇もない。近くのテーブルに飾られていた花が、花瓶ごと倒れて顔に降りかかる。むせ返るような匂いだ。

 発狂した母親は、もう俺の知る母親じゃなかった。むせてクッキーが母親の顔に飛び散った。血の味が舌を這う。無意識に母の手を噛む。それでも、クッキーを口に押し込もうとする。


「あんたは優秀!だから選ぶの!こんな、薄汚れた団地の娘なんか!選ぶな!!」


 優秀、なにが?
 だれが?


 首根っこを掴まれると、自分の部屋に連れて行かされる。バタンと扉が閉まって、真っ暗な部屋に1人になった。


 この家には俺と母親の2人だけ。助けを請える身内は家に居なかった。

 父親は帰り12時をいつも過ぎる。兄貴はこの時期荒れて、毎日朝帰りだった。


 その後も皿の割る音が響く。

 急いで部屋の鍵を閉め、耳を塞いで布団に潜った。顔のクッキーの残骸なんか、気にならなかった。怖かった。

 ただただ母親が、恐ろしかった。



 押し殺すように泣くうちに、寝てしまったらしい。

 いつの間にか、朝になった。


 恐る恐るリビングに行くと、朝食の香りとともに家族が3人とも揃っていた。

「おい泰斗、何回も起こしたんだぞ」

「あぁ眠い、朝いらねえ」

「こら、英治くん。そういうの、泰斗が真似するじゃない。ヒロくん、朝食よ」

「………」


 夢だったんじゃないか、何回もそう思った。涙を堪えながら席に着く。


「はい目玉焼きどうぞ」と、見慣れない皿を置く母親の手は、絆創膏が何か所も貼られていた。