振り返ると男の顔がすぐそばにあった。気づかないうちに後ろに周っていた。荒く生暖かい息遣いがわたしの首筋に当たる。
「はは、これでお終いだ。はは。」
「嘘でしょ・・・。」
わたしの腕が、肘のあたりまで飲み込まれていた。
「お前はもう終わりだ。」
後ろから声がする。自分が死ぬなんて。この旅で全てが終わっちゃうなんて。
「なんで。さっき猛毒だって、注意してくれたのに・・・。」
「あんなとこで死なれたら困るからな。誰にも見られずにお前を殺すには、ここしかもう残ってないんだ。お前は事故死だ。無知ゆえの、事故死だ。」
 わたしは振り返り、窪みに溜まった猛毒の液体を手で払い男の顔へぴしゃっとかけた。
「う、お、お前・・・。」
男は銃を持った腕で顔にかかった液体を拭いた。その隙にわたしは銃身を掴み男の手からもぎ取り、そのまま空へ投げた。
「おおおお、おまえええ!」
男は半分目を開けたまま腕を広げわたしに飛びかかった。わたしは恐くてしゃがみながら、けれど同時に後ろに手を回し腰の斧を抜き、そのまま男の右足首に振り下ろした。
 振り下ろされた斧は足首の付け根と足の甲との間に入っていった。驚くほど柔らかく、ばしゃっと音がして皮膚を切り割いて入っていった。まるで中に水を抱えたゴム袋を切り裂いた感覚だった。
 すると斧が食い込んだ場所から緑や紫の液体がどばどばと吹き出してきた。絵の具を水に溶かしたような薄い色で、吹き出す度に緑と紫交互に違う色が出てきた。
「う・・うわ・・。」
わたしは急いで斧を引き抜いて液体から飛び退いた。わたしはまじまじと男を見た。やっぱり人間じゃなかった。
「う、がああああ!」
男は斧が刺さった足をかばいながらどんと横に倒れた。
「いったい、何だっていうの・・・。」
男の足からはまだ傷口から緑と紫の薄い絵の具が規則正しいリズムで吹き出していた。
 ふと自分の腕を見ると、肘の辺りまで両腕が真っ黒に染まっていた。何度擦っても落ちない。手のひらも真っ黒だった。あの毒、ここの石の成分だ。
「だめだ。時間がない。」
 わたしはさらに上に続く梯子を見上げた。
「おい、やめろ!」
男が叫んだ。わたしは斧を持ったまま構わず梯子に手を掛けた。
「やめろ!おい!わかってるのか!全部台無しにするんだぞ!やめろ!」
「抑制だって?勝手に?みんなの頭の中を見たり制御したり、そんな権利が!あんたのどこにあるっていうの!どう考えても間違ってるのに、なんで気づけないの!」
わたしは梯子を登った。毒が回るまでどれだけかかるのか知らないけれど、おそらく時間がない。
「待て!聞け!いいから聞いてくれ!お前がすることは、全てを変えてしまう!わかってるのか!あの鬼だってそうだ!どうしてあんな凶暴なやつがどうしていままで生き延びてこれたと思う?お前がその装置を破壊したら、あの鬼だってただじゃすまないぞ。人はどれだけ犠牲を払ってでもあの鬼を排除する。それが好奇心だ。今こうやってあらゆる者の好奇心を抑えているから、ぎりぎりのところであの鬼に気が向かず、恐怖でまだ押しとどめていられるんだ。」
わたしは梯子を登る手を止めた。
「あの鬼はこの文明が生まれた時にすでにいた。凶暴だが、数少ない前の文明の生き残りだ。お前は、それでもいいというのか!」
あの鬼の寂しそうな背中を思い出した。誰も遊んでくれる相手がいないんだ・・・。「それだけじゃない!お前がしようとしていることは、この一つの文明を崩壊に向かわせるだけじゃない!ここには、この中枢区だけは、どれだけ文明が崩壊しても残ってきた!だからこそここだけが、今までの多くの崩壊した文明の知識と歴史が守られている!ここだけが、唯一安全な場所なんだ!その装置を破壊すると今までの全てがおしまいなんだ・・・。あらゆる者がここへ押し寄せ、我々が丁寧に慎重に扱ってきたことを塵にするだろう!それでいいのか?ここは単に高い場所じゃない!お前は数多の文明の重みを想像できるか?その重みを想像しろ!」
「でも・・・。」
「なあ、知りたくないか?この石が成長する仕組みは驚くべきものだろう?この世界には驚くべきことがたくさんある!ここにはそれらに関する記述が山のようにある!あの鬼のことだって、詳細に書かれた書物がある!前の文明のことだって、太古の昔の歴史まである!どうやって今のこの世界が出来たか、ここで知ることができるんだ!お前なら知りたいだろう?お前ならその価値がわかるだろう?ここまで来れたお前になら!なあ、ここに住まないか?解毒剤なら下の実験室にある!好きなだけここにいていい!知りたいことを好きなだけ調べていい!だから降りてこい!毒が回らないうちに、はやく実験室へ行くんだ!」
 わたしは振り返って男の顔を見た。男はしっかりとわたしを見返した。
「いや、違う・・・。」
「どのみち、もう無理なんだよ!」
わたしは男に説得した。
「このままずっと抑え続けられると思う?わたしはそうは思わない!」
ここまで、こんなところまで来たわたしには。いろんなことを感じながら、ここまで来た。
「彼が飛び降りたのが始まりだよ!なぜ彼は飛び降りた?ここは、より強く制御できてたんじゃなかった?なのに、彼はここに嫌気が差し、平らな外の世界に憧れた!このマークを作ったんだよ!あの時から気づくべきだったんだ・・・。どれだけ抑えようとしても、必ず彼みたいなのが出てくる。好奇心を抑制しても新天地に気づく人たちが現れるように、ここでも、きっとこの仕組みを気づく人が現れる!時間の問題なんだよ!あなたたちが抑えれば抑えるほど、そういった人たちは増えていくんでしょう?だから行動の制御なんかまで開発して無理やり排除しようとしたんでしょう?そんなことしても、根本的な解決にならないよ!あなたたちのシステムは最初から完璧じゃなかったんだ!早く気づいて、止めるべきだった!それに・・・!何が文明だよ!わたしたちを虫か実験材料のように扱って!勝手なことして・・・、一体誰のための、何の文明だよ!」
 そう言って吐き捨てた後、わたしは梯子を登る手を早めた。この男は毒が回るまで時間稼ぎをするつもりだ。ちゃんと聞いていたら何もしないままわたしは死んでしまう。
「じゃあ、どうすればいいっていうんだ?我々が間違っていたとしても、お前がその装置を破壊したら、また振り出しに戻るだけだ!お前は何も見ていないからそんな悠長なことが言えるんだ!お前の行動がどれだけ悲惨な結果を迎えるか、私は知っている!ここに見える景色が今こうやって落ち着いたのは我々のおかげなんだぞ!己の歴史を知らない小娘が・・・!」
「わたしたちに歴史から目を背けるようにしたのは誰だよ!その結果がこれじゃない!その結果がここにいるわたしじゃないか!わたしがここにいるのは全てあなたたちが招いたことじゃない!その結果を受け入れろ!」
 梯子はもうすぐで終わりだった。もうすぐで新天地の、本当の頂上だ。そしてわたしの旅の最後だ。
 男から何か返事が返ってくることはなかった。わたしは振り向かないまま梯子を登りきった。
 
 この中枢区、いや新天地の頂上は、一辺が二メートルほどのほぼ正方形の平らな石の床になっていた。その右側の隅に、小さなドーム型の装置が床にひっついていた。
 わたしは斧を抜いてそのドームに振り下ろした。ドームは薄い膜でできていてあっさりと破けた。
 手で膜を破り広げると、たくさんの細くこまかい銀色の金属部品に囲まれて、わたしの両手の拳を合わせたよりも大きい、深紅に光る宝石が嵌め込まれていた。
 宝石の表面はたくさんの光が反射し合って美しく明るい光が踊っていた。けれどその最深部では深紅の暗闇が心臓の鼓動のように脈打っていた。
 わたしは一瞬だけその宝石に目を奪われた。あなたは女でしょう?とその宝石が言ってきた気がした。宝石の魔力なんて信じなかったのに。わたしにはそんなもの感じるはずないのに。
 視界に自分の真っ黒な腕が映ってはっとした。わたしはもう、終わりなんだ。自分が死ぬ前にはやく、この旅を終わらせないと。
 わたしは大きく斧を振りかぶった。一度で仕留める。刃が欠けてもいい、いいから一度で叩き割るんだと自分に言い聞かせた。
 斧は空中で停止していた。
「割れ・・!割れ・・・!」
どうしてわたしは振り下ろせないんだ。宝石はもうただの石にしか見えない。なのに、どうして。
「くそっ・・・!割れ!いけ!」
悔しくて悔しくて涙が溢れ出てくる。どうしてもあの男の言っていた事が頭から離れられなかった。この行為は、わたしの行動は、間違っているのか。ならわたしは、なんのためにここに来たのか。どうして死ななくちゃいけないのか。
「違う!違う!やっぱりこんなの間違ってるよ!絶対間違ってる!このままで、いいはず、ない!」
わたしは思いきり斧を振り下ろした。