しばらくすると扉が閉まり、わたし一人を乗せてゆっくりと上昇を始めた。
 天井にあった円く蒼い光が消え、わたしの足下に点灯した。
 てっぺんだ。
 ゆっくりと扉が開き、少しずつ開いた隙から喧噪がこぼれ入ってくる。思わず一歩さがって構えると、扉はいままでと全く違う景色を運んできた。景色につられるまま、わたしは外へ出た。
 
 いままでのフロアと違って、目の前からずっとずっと奥まで見渡せた。右側の壁に縦長の大きな窓が奥まで延々と並んでいて、朝の白い光が射し込んでいた。
 たくさんの生き物が働いていた。彼の部屋にあったような、一つたりとも整理されていないいろんな器具や書類に埋もれたデスクが見渡す限り続いていた。いろんな種族が、その間を行ったり来たり、誰かと話し合っていたり、とにかく見た事も無いくらい広い部屋いっぱいに忙しそうだった。
 まずいまずいと思いながらも、どこへ向かえばいいのかわからなかった。ただひたすらに奥へ奥へと進んでいった。
 ここはどうやら本当のてっぺんではない気がした。こんな雑多なオフィスが新天地のてっぺんだとは思えないし、彼の言った上階ってことなんだろう。
 とすれば、どこかにまた上に行く宇宙船の扉があるに違いなかった。
 わたしはきょろきょろと見回しながら延々と続く通路を歩いた。宇宙船の扉はひたすら壁と同化していてどこにあるのか近づいてやっとわかるくらいだった。でもよく見ればわかるはず。扉を探すんじゃなくて、その空間を探したほうがいいと思った。
 しかし前方後方左右のどの方向も忙しそうで、わたしなんか誰も気にしていなかった。再び振り返ると、遠くのイカはデスクに向かっていた。
 だんだん奥に近づいていくと、喧噪は静まり、デスクの数も少なくなっていった。奥の壁際はどうやら休憩スペースのようで、椅子やらテーブルやらソファーが適当に置かれていた。
 ふっと端の方を見やると、左側の奥隅、左側の壁と奥の壁が交わる本当の隅っこに、喫煙室のような、柔らかいガラスに包まれた小さな部屋があった。
 振り返るとやっぱり誰もこっちを気にしていなかったので、とりあえず小部屋は置いといて、休憩スペースに入り奥の窓に近づいた。
「わあ、すごい。」
目がくらむほどの高さだった。世界が一望できる。新天地を越え、鬼のいた草原を越え。
「あ・・・。」
そう、わたしのいた、わたしたちのいる街まで。
 会社のトイレで見た、あの美しい新天地のビル。ここから出たいと切に願ったあの日。いまわたしはここにいる。わたしは窓に手をついてあの日こちらを見たわたしを見つめ返していた。
 後ろから聞こえてくる喧噪が夢のようだった。どうしてわたしは今あの街にいないんだろう。旅の間ずっと忘れてきた、忘れようとしてきたことが、今こうしてわたしに結びついてくる。こんなに離れた場所まで来て、そこまで来てしまったからこそ、今こうやって二つの世界が一続きだったことを嫌でも知る。新天地、いやあの工事現場のあたりから、わたしのいる街とは違う世界に踏み入ったと、思い込んだ。そう、思いたかった。わたしがこうして旅をする間、現実のほうも動いているなんて考えたくもなかった。けれど本当は同じ時間を共有し、同じ空を共有している。
 確かにあそこには会社があり、わたしの家がある。窓に手をついたままため息もついた。この旅が終わったら、わたしはどこへ帰るんだろう。あそこへ帰るのかな。こんな距離、また歩きたいとは思わないけれど。
 でも、歩きさえすれば、元の場所に帰れる。それは目の前の景色が嫌でも教えてくれる。わたしが自分の意思でここまで来たこと。帰る場所も、自分の意思で決められること。
 はっと我に返って後ろを見た。たぶん、誰も見ていないと思う。でもこれ以上ずっと突っ立っているのはまずいかもしれない。
 とんと窓をついて手を離した。まだ旅は終わってない。なにが終わりかわからないけれど、とにかく終わるまではその先は考えない。
 窓に広がる世界から目を離し、側のガラスに包まれた小部屋に向かった。

 近づくとほんのりと曇ったガラスの扉が音も無く開いた。促されるがまま部屋に入ると、扉は再び静かに閉まった。
 広さは人が三、四人立てばいっぱいになる狭さだった。文字通りこの広いフロアの隅の隅っこに作られた部屋だった。休憩スペースとを仕切る右側と後ろの扉のある面は曇りガラスが張られ、左手は透明な窓、そして前方の左半分は窓、右半分の面は柱のような漆黒の石で覆われていた。
「なるほど。」
ようやく見つけた。見つけたはいいけれど、どうやったら宇宙船が来てくれるのか、さっぱりわからなかった。ボタンらしきものもない。
 まあいいやと思ってビルの角から世界を眺めていると漆黒の扉が音も無く開き、さっきよりもずいぶん小さい宇宙船が口を開けた。
 扉が開いたままわたしはしばらくその場に立っていた。さっきはビルのある一面からしか眺められなかったけれど、いまはガラスが交わってできたビルの角にいる。だから、さっきよりも、もっと広く、もっと近い場所で見渡せた。こちら側では草原が遥か彼方まで続いていた。その遥か奥の方に、見間違いか、橋が架かっている気がした。ただあまりにも遠くて霞んでいるためよくわからない。でも、あれがもし本当に橋だったとしたら、この距離を考えると、新天地のビルくらいにとてつもなく高く、そして広い巨大な橋になる。
 ぽんと音がして急かされたので、後ろ髪引かれる思いで小型宇宙船に乗り込んだ。今度は蒼い光でなく、乳白を入れたような淡い黄金の光が小さい宇宙船を満たしていた。
 今度の上昇はさっきとは大違いで、とても上品な上がり方だった。重力がのしかかる感じもとても少なく、極めて滑らかに、静かに加速していった。
 しばらくすると、ゆっくりと減速をはじめ、停止した。天井に灯った光は相変わらずだった。まだてっぺんではないということだ。
 そのまま乗り過ごそうと思ったけれど、宇宙船に零れ込んで来たにおいをかいでわたしはためらいなく宇宙船から降りた。
 そこは壁も床もプラスチックのような半透明な乳白色でつるつるとしていた。高さは数メートルはありそうで、さっきの医務室のあった迷路のような場所と違い、相当奥までまっすぐ通路が走っていた。そして、医務室に連れて行かされたあいつと同じにおいが、あの薬品のにおいが、このフロアに充満していた。
 たぶん、あいつはここにいる。もう戻ってきてるかな。でも、あいつがここにいるってことは、彼もここに居たということになるんじゃないのかな。彼が研究していた場所、それがここじゃないのかな。
 腕時計を見た。
 十時半を指したアナログな針の側に、あのマークが刻まれていた。
 ここでリスクを冒すのはまずい。もう一度あいつに出会ったら、今度こそ終わり。でも引き返すなんて考えはこれっぽっちもなかった。ここまでわたしを引き上げてくれた彼に恩を返すのだ。彼のことを知っている人が必ずいる。彼のことを想っている人が必ず。
 通路をぼうっと歩いていると、各部屋で全然違うことをしているような気配がした。音だったり、においだったりで、なんとなくわかった。ある部屋はドリルの音、何かがバタバタする音、生臭い匂いがこぼれてくるのに対して、ある部屋では何人かが静かに話し合っていたり、白い壁に囲まれて見えないけれど、どの部屋にも何かがいて、ここが活発に活動している気配が伝わってきた。

「やあ。」
すぐ目の前の十字路の右手から、突然人がぬっと現れた。人というか、人間じゃなくて、まるで二メートルはありそうな褐色の樹木が立っていた。足の先端に行くに従って太い根のようなものがどんどん細くなり、それぞれがぴくぴく動きながら後ろの方に伸びていた。
 びっくりして固まっていると、
「ごめんね。驚かせてしまって。でもねもう、全部ばれてるよ。上でちょっと待っている人がいるから。案内するよ。」
ああ、見つかっちゃった。さっきとは違って、丁重なおもてなしだった。どんな言い訳も通じないとわかった。わたしはうんと頷いた。子供の頃にあった、悪いことをしていたのが完全にばれていた時のような決まりの悪さと、これからこっぴどく怒られそうな予感と恐怖で胸がいっぱいになった。
「でも、ちょっと不思議なんだな。どうして一番上まで行かずに、ここで降りたの?」
「このマーク、知っていますか?」
わたしは腕を上げてマークを見せた。
 彼はふふと笑った。わたしは一発でぴんときた。
「覚えているんですね?」
「ああ・・・、覚えているよ。これを私に持ってきた奴がいたんだ。レジスタンスがいるってね。」
少し黙ったあと、
「彼は、元気かい?」
と聞いた。わたしはあえて黙って見返した。
 すると、彼は、わたしを見たまま泣いていた。
「ええ。彼は元気です。わたしをここまで連れてきてくれました。」
「本当かい?彼は元気にしているんだね?彼は頑丈だと自分でよく言っていたけれど、本当に頑丈だったんだね。本当によかった。」
 しばらくぐすんとしていたけれど、振り切ったように一つ咳をして、
「こっちへ来て。彼の部屋を見せてあげよう。」
そう言ってくるりと回って右へ曲がって歩き出した。滑るといったほうがいいかもしれない。
「ずっと、気になっていたんだ。あの窓から飛び降りた日は忘れないよ。けれど、生きていたんだね。彼は。ちゃんとやっているんだね。僕は、本当にうれしいよ。ありがとう。」
彼は立ち止まってわたしにお礼をした。お礼かどうかは曖昧だったけれど、ここに来た甲斐はあったと思った。彼を想っていてくれる人がちゃんといた。それがなぜかわたしにとって嬉しかった。

「ここが、彼の部屋だ。いまは僕の部屋だけど、あの日のままにしてある。」
「あの、あなた以外にも、彼の事・・・。」
「うん。言っておくよ。慎重にね。あの事件はここじゃタブーだ。誰も触れちゃいけないんだ。いろんな意味でね。それでも、彼のことを忘れていない人はいるんだ。」
よかったねと、彼に呟いた。あなたはこんなにも想われているよ。
 部屋は壁と同じく半透明な乳白色で、角が丸くなった四角い部屋に、同じような色で同じように角が丸いうねうねしたテーブルが中央から全体に伸びていた。そんな変わったテーブルの上にはやっぱり、あの部屋と同じようにいろんな書類や器具、機器が雑に置かれていた。
「彼の家と同じです。」
「はは。ここにいるみんなこんな感じだよ。」
わたしはテーブルと同じ種類であろう小さい椅子に座って背にもたれかけた。
「ここにいたの・・・。」
「ああ・・・。」
 わたしたちに想い想いの時間が流れた。
 椅子の側には樹でできた小さい棚があり、その中にはお手製とみられる時計や、小さなディスプレイの部品やら、小物がたくさん置かれていた。きっとお気に入りをここに入れていたんだろうな。
 ふっと下段を見ると、工具用と見られる錆び付いた小さな斧が横たわっていた。顔を上げると彼はテーブルの上の書類に目を通していた。
 わたしは手のひらサイズの斧を拾って後ろの腰に差した。
 ばれてしまった以上、わたしはもうここの住人じゃない。
 ここにいる全員が敵だ。

「じゃあ、そろそろ行こうか。」
「それでも、わたしを連れて行くんですね。」
「うん。ごめんね。こればっかりは、僕の首が飛ぶからね。文字通り。」
 わたしは彼を睨んだ。