手を上げて少し抱きつくような格好にすると、彼はわたしの腰に小さい手を回して、わたしたちをロープで結んだ。
「じゃあ、行くぞ。ロープがぴんと張らないようについてこいよ。」
真夜中の冷えた鉄にしがみついた。梯子に渡された鉄棒は細く、身体を傾けると簡単に折れそうだった。

 滑るような速さで上へ上へと登っていった。規則正しいリズムで一歩一歩上がっていく。入り組んだたくさんの廊下を下から見上げ、そして見下ろしていった。
 いつも下側しか見た事のなかった廊下の上側は透明の半球ドームに覆われていて、ほの青く光るまっすぐな直線が二本、道に沿って流れていた。
「ねえ、これ、こっちから見えるってことは、向こうから見てもわたしたちばればれなんじゃない?」
「まあ、そうだな。元はビルがここまでしかなかったから、みんな上を見上げて空を見てたりしたんだ。ビルの成長に伴って廊下を作って、さらにその上にも、ってな具合で、このへんならもうなにも見えないから、今は誰ももう上を見上げんよ。」
 それでも誰かがふと気配を感じて振り返るようにこっちを見はしないかとひやひやしたけれど、そもそも誰も廊下を通らなかった。

 もうどれくらい登ったんだろう。規則正しく登り続けるのが難しくなっていた。手足が重く、掴まっているのがやっとだった。
 自分のペースで登っていると、ロープがぴんと張った。
「おい、大丈夫か?」
少し遠くの方で彼の声が聞こえた。
「だいぶ疲れた。」
一番辛いのは休憩ができないことだった。一休みということでしゃがんでゆっくりしたかった。ここじゃ止まっているだけでも力を消費してしまう。
「あとちょっとだ。」
 そのとき風がびゅうっと吹き込んできた。
 この穴の真上からどんと落ちてきたようだった。重い風に必死で耐えながら、あとちょっと言った意味が分かった気がした。
 あとちょっとと言いながらも、また気が遠くなるくらい登り続けた気がする。それでもペースを緩めずに登り続けた。少しずつ空気が新鮮になっていくのが肌でも感じられた。
 梯子を登っていた彼の足音が突然小さくなった。
 上を見上げると、脚を掛けてどこかへ降り立とうとしていた。
 彼が真上からいなくなると、ほの明るい空と、梯子の終点が見えた。
 いよいよだ、そう思った。これからだと。

 あと少しなのに、梯子を握る手に力が入らない。上へ進むのを拒否するように腕が震える。わたしは俯いて歯を食いしばりながら登った。
 梯子に手をかけた時、冷たい風が手の甲を撫でた。見上げると、空がすぐ近くに迫っていた。
 もう体はなにも感じなくなっていた。そのまま梯子を登ると、ようやくこの長いトンネルを抜けた。俯いた顔を上げると、彼方まで広がる世界にわたしは包まれていた。
 空はいっぱいに広がり続け、遠くから金色の光が零れ出していた。遥か遠くまで空と地が続き、最後にはそれらが交わって線になっていた。こんなに美しい光景を見たことはないと思った。太陽の光に刺されながら涙が出てきても、それでも目を見開いて全てを焼き付けた。
「ちょうど夜明けに間に合ったな。」
彼は漆黒の石でできたビルの屋上にいた。わたしも脚を掛けてそこへ降り立った。脚が限界まで疲れていたからその場で崩れ落ち、仰向けに横たわった。
 屋上といったものの、本当の屋上はまだ上で、ちょうどこの地点でビルがくびれて、ここから梯子が続くこの一部だけがまだ伸びていた。梯子はその本当の屋上まで、延びていた。
 そして、その屋上から一本の渡り廊下が生え、横に伸びていた。
 ずうっと辿っていくと、今いる高さよりも、何倍も高い一本の直立したビルに向かって延びていた。ここだけじゃなく、周囲にぽつぽつと生えている他の背の高いビルからも、廊下がその一番高いビルへ延びていた。
「そう、あれが中枢区だ。」
わたしの視線の後を追って言った。
「あそこにいたの?」
「うん。あのてっぺんあたりだな。」
「・・・すごいね。」
 しかし、本当に凄い光景だった。今いる場所でさえ、体験した事のない高さだった。雲なんてわたしたちよりも全然低い場所に浮かんでいる。それなのに、まだその何倍も高いビルがあるなんて。
「でも、ずいぶん遠いね。」
とてつもなく巨大なのは遠目から見てもわかるが、遠目から見て大きさがわかるくらい、遠い場所にあった。透き通ったこの朝でさえ、少し霞んで見える。
「ああ、だから、歩いて中枢に行くっていったときは、たまげたな。」
わたしもたまげるね、と言って笑い合った。こんなに高い場所で笑っているのも面白かった。声が空一面に発散してゆく。
「あれ、見えるか?」
そう言って真上の廊下を指した。
「あれに乗っていけば、すぐ着く。歩きなんかよりも断然速い。」
ぼうっと廊下を眺めていると、不思議なことに気がついた。
「あれ、あそこまでどうやっていくの?」
確かに、廊下の付け根あたりの真下、こちらが見上げてちょうど見える所に小さな正方形の扉らしきものが付いていた。もちろん閉まっていたけれど、問題はそこだけじゃなくて、梯子がそこへ続いていないということだった。四角く伸びるビルのうち、廊下の生えている面と反対側に梯子は伸びていた。
「ここからが本番だな。」
寝転んだまま彼を見上げた。
「どうするの?」
「鍵は持ってるんだ。」
そう言ってポケットから自転車の鍵みたいなのを取り出した。
「でもどうやってあそこまで行くの?」
「そうだな、この吸盤を使ってみようと思う。」
そういって彼は二の腕に生えた吸盤をそっと見せた。
「ただ、やったことないけどな。こんな吸盤で自分の体重、支えられるもんかね。」
「それで、ここまでわたしを連れてきたの?」
「それでって、そんな考えでってことか?ああ、もちろんだよ。」
「もし出来なかったらどうするの?」
「この梯子を降りるしかないな。まあ、俺は飛び降りればすぐだが。」
「・・・マジ?」
「なんだそれ?」
「・・・・ほんとに?」
「ああ、だから今から本番なんだ。まあ、頑張るから、見といてくれよ。」

 そして彼が再び梯子に手をかけるのをぼうっと眺めていると、早く来いと言われた。
「見といてくれって。」
「傍でって意味だよ。」
 梯子を登るのは、もしかしたら今まで以上に大変だったかもしれない。少し休憩できたとは言え、腕はまだぷるぷる震えるし、なにより、自分がいまどこにいるかがはっきりわかるのが怖かった。おまけに風が強く、そして冷たかった。手がかじかんでしっかり掴めているかさえよくわからなかった。でももう、進むしかなかった。それしか頭になかった。

「よし。着いた。」
少し時間が経ってわたしも彼に追いついた。下を見るとさっき休憩していた場所が小さく見える。見上げた時はそうでもなかったのに、案外高さがある。手のひらにじわっと汗がにじんだ。
「よし、ロープを外すぞ。」
わたしと彼とを結ぶロープがほどかれる。いま梯子を握りしめるわたしは、また世界でひとりぼっちだ。
 彼はほどいたロープを梯子に括り付けると、結び目を何度も確認した。
「別に死ぬ訳じゃないが、落ちたらまたここまでこなくちゃいけないからな。」
 二の腕の吸盤で張り付いて扉の下までゆき、鍵を開けて中に入る。次にロープの結び目を解いてわたしの体に括り付ける。その状態で梯子から飛び降りるとくるっと反対側へ回って扉の真下にぶら下がる形になる。あとはわたしがロープを辿って登っていけばいい。
 そういう計画だった。
「文句あるか?」
死んだ目をしているわたしにそういった。
「たぶんないです。」
「よし。なら行くぞ。」
梯子から身を乗り出して真っ黒な腕をできるだけ縦にして壁にくっつける。ゆっくりと体重を傾け、ぽんと足を離した。
「お。」
「やった!」
彼は二の腕の吸盤に支えられて壁に張り付いていた。
「いや、だめだ。」
吸盤はゆっくり剝がれていった。彼はその様子をじっと見つめていた。そしてずるっと滑った瞬間、彼は落ちていった。
 ロープがぴんと張り、梯子全体が揺れる。彼はロープに引っ張られて梯子に衝突するような形になり、再び離されないよう必死でしがみついた。
「大丈夫?」
「大丈夫。」
 再びわたしのところまで戻ってくると、
「いけるかもしれない。」
と彼は言った。
「ビルの壁と相性がいいんだ。壁がつるつるなおかげで、ちょっとの間ならなんとか持ちそう。」
 じゃあ、本番だな、と言って腕を接着しためらいなく足を離した。
べりべり腕を引き離しながら移動する様は不思議な光景だった。彼がいなかったら、今頃わたしはどうなってたんだろう。
 そのうちに彼は裏側に回り姿が見えなくなった。移動するのは大丈夫そうだったけれど、あの状態で鍵を開けられるだろうか。廊下のすぐ下側にある扉までは、彼の手を伸ばしてぎりぎりかもしれない。
 それから長い時間が経った。ロープは横に伸びたまま、時々揺らいでいた。太陽は今や完全に地平線から離れ、ちょうど私の背中のすぐ後ろにいた。時々吹きつける強風で飛ばされそうになった。
 不安で、静かな時間が流れた。