どのくらい時間が経っただろう。もう特定の廊下を辿るのはやめた。道幅は車が四、五台は横に並んで走れるくらい太くなっていて、その道路から脇に沢山の細い路地が流れていた。
 そして、今までの道のりと違ってあたりはうるさくなっていた。
 ビルの壁のそこら中、高いところや低いところにいろんな大きさ、形の扉があった。そして扉の上には必ずよくわからない字で書かれた看板がネオンのような光で光っていた。扉だけじゃない。落書きも多かった。読めない文字、気味の悪い絵、斜線で描かれる光、小さな大量の者たち。それらが静かにわたしを待ち伏せしている。
 臭いもひどかった。一度嘔吐いて壁に立ち止まった。薄い肌色のゴミ袋にぱんぱんに詰まったゴミが道に適当に放り投げられていた。ゴミ袋に入っているならまだしも、生もの、たぶん生ものが、地面や壁にまでべったりと張り付いていた。おそらく、みんなそれぞれの扉からゴミをここに不法投棄してるんじゃないかなと思った。
 そんなうるさくて静かな道をひたすら中枢に向かって歩いていった。
 
 かろうじて見える廊下の隙間の空からは、もうすぐで日暮れだと教えてくれた。
 また夜がやってくる。
 街灯なんてなくてもそこら中のネオンで明るかったけれど、夜こんな劣悪な場所で寝たくはなかった。
「せめて上に登れればなあ。」
ひしめく廊下を見上げた。でもそれは簡単な話じゃない。たくさんの廊下の上に廊下があって、その上にも・・・。
 まあ、周りの環境は頑張って呑み込んだとしても、夜になったら何が出てくるか、わかったもんじゃない。そこが一番恐かった。
 この広い道路もまた恐かった。おそらく、この道をもうまっすぐに進んでいくだけで、中枢区に向かえるだろう。それはいいけれど、このだだっ広い道路の隅っこに、ビルに沿って歩くわたしをどこかで誰かがじっと見つめてはいないかと恐くなる。後ろを急に振り返ってみても誰もいないけれど、また前を向くと背中の後ろに誰かが立っているような気がして、また急いで振り返る・・・。勝手に恐怖を増幅させてしまう。
 しばらく歩いていると、重そうな扉が強引に閉まられたような、乱暴な音がどこからか響いてきた。
 歩みを止めてじっと耳を澄ましてみる。響いた音はそれきりだった。
 再び歩きだした。なにかがマズイ気がしてきた。
 それから何度か扉の開く音が聞こえた。それでも遠くの方だけだった。
 延々と歩き続けた。あれだけ嘔吐いていた臭いにも鼻が慣れ、この場所自体にも慣れ始めてきていた。生ゴミが散らばる環境で平気でサンドイッチを食べた。鼻がマヒしていて味はよくわからなかったけれど、よく噛んで食べた。
 そうしているうちに、疲れがじわじわと押し寄せてきていた。脚を前に出す作業が億劫になり、自然とスピードが落ちた。それでも、そこら中に新鮮な生ゴミや古い生ゴミがへばりついているため、休憩するどころか、壁に手をつくことすらできなかった。
 大きなあくびをして立ち止まった。もうだめ。もう寝たい。あたりをあちこち振り返って少しでも寝れそうな場所を探したけれど、汚いゴミがそこら中にへばりついていてさすがに横になることは今のわたしでもできそうになかった。
 道路の先をみやった。ゆるやかなカーブを描いて、まだまだ先まで続いているようだった。
 ふっと後ろを振り返った。
 がらんとした通りが眩しい扉まみれの壁に挟まって底なしの道のようだった。
 また始まった。鳥肌が立つ。気のせいなのに、一旦何かがいるように感じてしまうと自分でその恐怖に引きずり込まれていく。
「もういや。」
ぎりぎりまで張りつめようとしていたものが伸びきってしまった。もう、どこかの扉に入ろうと思った。地上近くにくっついた扉で、できればあのおばちゃんの店の扉と同じようなやつがいいな。
 道の反対側も睨みながらしらみつぶしに探してみても、なかなか見つからなかった。あったことはあったけれど、扉が小さかったり、とりわけ臭いゴミがへばりついていたり、不気味な落書きがされていたりと、入るにはためらわれるものばかりだった。
 それからどのくらい経ったか、脚の疲れも喉の乾きもお腹の減りもなにも感じなくなった頃に、ようやく入れそうな扉を見つけた。
 くすんだ白い扉でシンプルな長方形の扉。ネオンもない。ゴミもついてない。落書きもない。大きさは子供の背くらいしかなかったけれど、地面と接地して扉があるのは珍しかった。
 なにより、その扉にはちゃんと取っ手がついていた。他の扉にはない、外の者を歓迎する徴があった。わたしにとって、それはおばちゃんのお店にもあった、蛍光灯と同じ作用を持っていた。
 まあ、おばちゃんも半ば冗談で、まさかと思って付けていたみたいだったけれど。
 しばらくそのままぼうっと突っ立っていて、このままここにいても意味ないやと我に返った。あたりを見回して誰も見ていないのを確認した。
 取っ手を回してぐっと押した。
 ガチャンと大きな音がなって、息を吹き返したような風を起こして扉が開いた。
 ゆっくりと扉を開けていく。少しずつ空間が現れる。灰色の通路が見えた。明るい蛍光灯が眩しい。少しずつ奥が見えていく。少しずつ、少しずつ・・・。
 手が止まった。
 なにかがこちらに向き合って立っていた。

 わたしは取っ手を持ったまま固まった。
 灰色の狭い廊下の突き当たりに、真っ黒な子供がこちらを向いて立っていた。黒いというより、闇に近い。口は大きくタコのように突き出していて、髪は後ろにきゅっと束ねられていた。全体的に前に尖った顔の形をしていた。そして同じように真っ黒な、長方形のサングラスをかけていた。手は後ろに組まれ、わたしをじっと見ていた。
 不気味だった。工事現場の公園にいたあれを思い出した。
「入りなさい。」
低い声でそう言われて自然とわたしの体は従った。屈んだまま廊下に入っていく。
「おじゃまします・・・。」
礼儀だけでも伝わって欲しいと思って顔を見ても、サングラスからは何も読み取れなかった。
 どぉんと重い音を立てて扉が閉まった。

 それはわたしから目をそらして、手を後ろに組んだまま、突き当たりの廊下を右に曲がった。
 天井に頭を打たないように注意しながらあわてて後を追いかけた。
 角を曲がると、狭い廊下に繋がって小さい部屋が現れた。
 淡い灰色の部屋で、高さはわたしの背よりも少し低い。おそらく完璧に立方体な部屋に、格子に入れられた蛍光灯が部屋の六面すべてに嵌め込まれていてほの明るく光っていた。
 部屋の真ん中には同じような色の長方形のテーブルがどんと置かれており、そこに雑然と工具や回路基板やケーブル、そして書類で埋もれていた。
 まるで秘密基地のようだった。
「入りなさい。」
廊下に突っ立っていたわたしを部屋に招いた。
 黒いそれは椅子に座っていた。テーブルを挟んで二つしか椅子がなかったから、仕方なくもう一方の椅子に座った。
 ちょうど向き合うような形になって、それも狭いから、余計に妙な圧迫感と恐怖感が増してしまう。さっき隠れていた腕の部分には肘から肩の辺りまで吸盤のようなものが小さく並んでいた。
思わず顔を反らして部屋を見渡していても、その間ずっとこちらを見ていた。
 気まずくなって、いよいよ顔を合わせると、相手が口を開いた。
「なんの用だ?」
「え・・・。」
なんでわたしに聞いてくるんだろうと思ったけれど、そういえば自分でここの扉を開けたんだった。
「あ、あの、少し疲れているので、ちょっと、休ませて頂ければ・・・。」
言いながら、やっぱりここはやめようという気になっていた。こんな狭い部屋じゃ横になって寝れない上に、得体の知れないものが側にいて安心して寝れるわけない。
 失敗した・・・。心の中でそう思った。