***
「ただいま帰りました…」
「おかえりなさいませ、真琴様」
少し重い気分で開けた玄関扉の向こうで私を出迎えてくれたのは、私服姿の浩人さんだった。
「こんな格好で申し訳ありません。私用で出かけておりましたので」
苦笑いを浮かべる浩人さんに、私はそれとなく目線を逸らした。
浩人さんの私服姿は、一緒に出かけた時のことを思い出して胸がざわつく。
思い出したくないのに、一緒に過ごした時間の胸の高鳴りを、心地のいい時間を思い出してしまう。
今の浩人さんは、私服姿で、話し言葉は執事のそれ。
もうこれ以上頭を混乱させると、余計なことを言いかねない。
(私服で出かける私用って何ですか?…なんて聞いてどうするの…)
「…それは、お疲れ様です」
浩人さんの言葉にそれしか答えられなくて、私たちの間に不自然な沈黙がおりる。
沈黙に耐えられなくなって、私は自分の部屋へと足を踏み出す。
けれど、目の前に浩人さんが来て、私の行く道を塞いだ。
「…部屋で着替えてきます」
「少し、いい?」
(…“浩人さん”だ)
また、急に変える。
急に縮められた距離に、訳が分からなくなってしまう。
(なんでこんなに振り回されるの。もう、胸が苦しい…)
私が意識して空けた距離をいとも簡単に飛び越えて、浩人さんは私を翻弄する。
翻弄されたくないのに、私はどうしても自分が分からなくなる。
嫌だ。
自分で自分をコントロールできない。
今、かろうじて守っている残りの距離まで飛び越えられたら、私はすべてを明け渡してしまうような気がする。
だから、自分の中の一番奥が、流されるなと自分を律する。
「…着替えたいです」
「時間は取らないよ」
私は自分の足を見つめて、逃げる言葉を必死で探す。
私よりも遥か先を行く浩人さんを言いくるめられるのかと不安になるけど、それでも。
「ごめんなさい、先に着替え…」
「俺、困らせてる?」
かぶせられた声は、言葉とは裏腹なトーンに聞こえた。
見上げた先の表情も、台詞と合っていない。
まるでその質問に対する私の答えが分かっているような声で、表情で、投げられた問い。
私は何も言葉を返せなかった。
「好きだよ」
「……っ」
「知ってると思うけど」
初めてはっきりと言葉にされて、胸が高鳴ると同時に、私は泣きそうだった。
うろたえないでいられるほど、私の精神力は強くない。
嬉しいのに、苦しい。
浩人さんが好きなのに、自分に自信がない。
そんな自分が情けない。
でも、顔が熱い。
嬉しさで胸が切ない。
「……知りません」
私の小さな呟きに、浩人さんは虚をつかれたように見えた。
「そんなこと、知りません」
もう一度、はっきりと言い放ち、浩人さんの反応も待たずに足を踏み出した。
浩人さんの横を足早に通り抜ける。
「真琴っ、…」
振り返らずに廊下を進んだ。
浩人さんの隣に並ぶ自信なんて持てない。
浩人さんなんて好きじゃない。
絶対に、好きじゃない。ただの憧れ。
言い聞かせるように繰り返して、霞んだ視界を腕で拭う。
浩人さんの声が耳から離れなくて、閉じた扉に寄り掛かって、震えるため息をついた。

