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「ここまでで分からないところはありますか?」
「…ありません」
分かりやすい、なんてものじゃない。
ちんぷんかんぷんだった英文が、今では簡単なものだったかのように思えるほどだ。
(学校の授業いらなくなりそう…)
「真琴様は飲み込みが早くていらっしゃる」
「浩人さんの教え方が上手なんです」
「それは光栄です」
分からないと言って見せた英文を目で追って、すぐに説明を始めた浩人さんに驚きしかなかった。
外国の大学に通っていたというなら、きっとネイティブのようにスラスラと読めるのだろう。
私が全力をかけて英語を勉強したとしても、浩人さんと同じレベルに到達するのは何年先になるか分からない。
浩人さんへの距離がまた1つ遠ざかったように感じた。
「では、続きですね」
その言葉に意識を引き戻されて、慌てて目線を文章へと向ける。
遠ざかるもなにも、そもそも遠い人だ。
そんなこと分かりきっている。
今日、嫌と言うほど思い知った。
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「他に質問はよろしいですか?」
「はい、ありがとうございます」
隣に椅子を持ってきて座っていた浩人さんに体を向け、深々と頭を下げた。
自然と向き合う形になって、思ったよりも近い距離に、少し椅子を引いて距離を空ける。
「また分からないものがあれば、いつでもどうぞ。英語以外でも構いませんよ」
「ありがとうございます」
もう一度お礼を言って、私は気づかれないようにひっそりと長い息をついた。
浩人さんの言葉は素直に嬉しいし、教えてもらえるのは本当に助かる。
けれど、あまり2人にならない方がいいと考えていた。
一緒に過ごす時間が長ければ長いほど、自分の気持ちを隠せる気がしない。
好きだとは思うけれど、それを口にするつもりはない。
自分が浩人さんの隣に並び立てる自信なんて私にはないから。
それなら、共有する時間は浩人さんの本来の仕事の間だけにして、こういった2人だけの時間は減らすべきだ。
(なんて思ってるくせに、今、浩人さんが敬語なのが嫌だとか…また矛盾してるな)
自分に自信があって、浩人さんの隣に立てると思えたら、この気持ちを打ち明けられるのだろうか。
そんな自信、どうやったらつくのか分からないけれど。
(ああ、もう。頭ぐちゃぐちゃだ…)
「真琴様?」
「あ…はい、なんですか?」
「…いえ、心ここに在らずだったのでどうなさったのかと思いまして。何かありましたか?」
ぎく、と心臓がはねた。
ばかだ。
本人の前で考え込むなんて、それこそ何やってるんだろうと自分に呆れる。
「いえ、大丈夫です」
「本当ですか?遠慮なさることはありませんよ?」
「本当に大丈夫です」
「本当に?」
優しい声のまま、言葉が突然変わった。
「無理してない?」
さっき私が空けた距離をつめて、浩人さんの顔がこちらを覗き込む。
(なんで、今、“浩人さん”になるの…)
このタイミングは、不意打ちはずるい。
ぎゅ、と胸が痛くなって苦しくて、誤魔化すように首を横に振った。
「無理なんてしてません。…なんでいきなり、話し方変えるんですか」
「この方が打ち明けやすいかと思って」
「…何も、ありませんよ」
「そっか、それならいいんだ。…では、何かあったらすぐに言ってくださいね」
また突然に変化した口調にもう訳が分からなくなって、思わずその服を掴んだ。

