「あ、」
『ん?』
「月」
さっきまで曇っていたはずなのに、
まるで見計らったかのように月が顔を出す。
しかも、
『今日って満月だったんだな』
とても大きくて、真ん丸で、わたしたちを優しく照らしていた。
……不思議な気分だった。
夜空に堂々と浮かぶ満月に素直になりなさい、そう背中を押されているような気がした。
「わたしが先輩と別れたのはね、夏目漱石の話を聞いたからなんだ」
『夏目漱石?』
急に話を始めたわたしに何も言わずトシは受け入れてくれる。
「トシが引っ越してから少しして、現国の授業で先生が教えてくれたの。
夏目漱石は英語の先生で、ある日生徒にこんな問題を出した。
”I love you”を訳しなさい」
『I love you……?』
「そう、I love you。
聞かれた学生は我汝を愛す、って答えたんだって。
そしたら夏目相漱石は言ったの。
日本人はそんな無粋なことは言わない。
そんな時は”月がきれいですね”とでも訳しておくのがいい、って」
『月が、きれい……』
一文字一文字をなぞる様にトシはその言葉をゆっくりと繰り返した。
「恥ずかしがり屋の日本人があなたを愛しています、なんてストレートな言葉を使うのはおかしい、って夏目漱石は思ったんだって。
それで、好きな人ときれいな月を一緒に見上げて、
きれいですね、って気持ちを共有することをI love youって言ったんだって。
例えば
美味しいものを食べたら、好きな人と一緒に食べたい、って思うでしょ?
楽しかったことがあったら、好きな人と一緒にしたい、って思うでしょ?
きれいな景色を見たら、好きな人と一緒に見たい、って思うでしょ?
だからI love youは月がきれいですね、なんだって」
あのときの衝撃を今でも忘れられずにいる。
「それを聞いたとき、気づいたの。
わたしが美味しいものを食べたり、楽しかったことがあったとき、
1番に顔を思い浮かべるのは先輩じゃなかった。
一緒に月を見上げてきれいだね、って言いたい相手は先輩じゃない、って気づいたの」
満月を見上げる。
「ねえ、トシ」
『ん?』
「月がきれいだね」


