「すみません。覚えてないです」

そう言い切って、 立ち去ろうとすると「今、何してる?」と私の返事を気にすることなく会話を続けた。

「……出版社で働いてますけど」

そういうと、先生の顔がはっきりと明るくなった。

「夢、叶えたんだ」

先生、そんなこと覚えてくれていたんですね。そう思ったけど、警戒心でいっぱいという顔を崩さないように彼を見た。

「夢?」

「文芸書の編集者になって本を作りたいって言ってただろ?いい加減、思い出せよ」

「ええ。まあ、今は文芸書を作ったりしていますけど。でもすみません、やっぱり私……」

「おめでと」と、彼は目を細めて笑った。

「あの……すみません。さっきから誰かと勘違いされてるみたいですけど。急いでいるので、失礼します」

「あ、なつめ」

先生は止めた。

「今度、良かったら飯でも行かないか?忘れたなら、思い出させてやるよ」

先生はきっと、昔の教え子に会えたことが懐かしくなった、それだけの好意で誘ってくれたんだと一瞬で理解はできた。

「すみません。私、彼氏がいるので只のナンパでしたら、お断りします。では」

信号が変わると同時に、走る。先生はもう私を引き留めることもしなかった。