確かに僕一人では何もできないことは理解している。

 しかし、なぜか胸の奥に重くのしかかるような、やりきれない想いが、僕を前に進めさせなかった。沈黙が、さらに自分のいる空間を重く息苦しくさせていた。

三浦氏の視線が重くのしかかる。

 「ふう」 三浦氏が軽くため息をついた。

 「だめかなー 僕の申し出は?」

 沈んだ声で彼、三浦氏は問いかけた。

 店内の曲が静かに代わり、聞き覚えのある懐かしいメロディーが流れ込んでくる。

 子供の頃何度も、何度も観ていた物語の曲。

 「新たな世界」

 そう、僕も今、本当の「新たな世界」を受け入れなければならないのだ。

 僕は、勇気を振り絞り 三浦氏に答えた。

 「僕のこと本当に心配して頂い有難うございます。」

 「正直、今自分が置かれている状況も解ります。」

 「でも、自分がこれからどうしていったらいいのか、全くわからないんです。」

 「僕が、これから・・・ うぐっ これから・・・」
 
 両手は、痛いほど固く拳を握りしめ、腕は微かに震えていた。言葉を出そうにも声が出ない。
 
 最後に

 「僕、もうどこにも行くところは、ありません。」

 「宜しくお願いします。」
 
 そう言って、うつむいたまま、顔上げることが出来なかった。

 
三浦氏は、静かに
「わかった」
と呟いて、僕の頭を軽くなでた。

 「こちらこそよろしく 頼む」

 三浦氏は、ショウケースから焼き菓子を取り出し、僕と律ねえの前に置いた。

 「ふぁ 「カヌレ」だー」
 
 律ねえが手を組んで喜んだ。

 「ねぇ結城君マスターの創る「カヌレ」ものすごくおいしいのよ」

 「だってお店の名前にしちゃうくらいなんだもんね。」

 「カヌレ?訊いたことない名前だった。」

 そこにのは、白い皿の上に「こげ茶色」?いやもっと黒々としていて、カップの型だろうか、縦に溝があり、厚い歯車のよな形をしていて、ちょうどカウンターのライトの光が型の光沢部分を照らしていた。

 律ねえは、一押しと言っていたが、外見は乏しく地味でこんな時にこの菓子を選んだということは、あまり歓迎されていないんだと感じていた。しかも、フォークさえ添えられていなかった。あまりいい気はしない。
 
 「どうした」
 
 三浦氏が問いかける。

 「いえ、なんでもありません。」

 「いただきます」

 僕はその焼き菓子を手で取り、口にした。

 その瞬間、微かな甘酸っぱい香りが鼻をかすめる。

 表面はカリッとしていて、もっちりとした弾力の歯ごたえがファーストインパクトを与える。次の瞬間、濃厚なたまごの風味と上品なバニラの香りが、程よい甘さとともに、口いっぱいに広がる。その濃厚なハーモニーを必死に感じながら、一口目をゆっくりと飲み込む。
正直、衝撃だった。

 外見からは想像もつかないほど繊細な洋菓子。

 こんなの初めてだった。

 「どうだ」

 「うまいか」

 「おいしいです」

 「初めてです。こんなにおいしいお菓子を食べたのは」

 三浦氏は、「うん」とうなずいて

 「君には、この「カヌレ」をたべてもらいたかった。

この「カヌレ」は僕にとっては想いで深い菓子なんだ。そう、君のご両親と出会うきっかけになった菓子でもある。」

「そうなんですか?」

僕がそういうのと同時に奥から、長い金髪をアップに束ね青色の縁取りのある白いコック服を着た女性が僕の視界に入った。

 彼女の肌は透き通る様に白く、その瞳は鮮やかな青色に輝いていた。その容姿からは想いもよらないほど綺麗な日本語が放たれた。

 「初めまして、結城君」

 彼女の優しい声と、その微笑はまるで映画のヒロインの様だった。

 差し伸べた彼女の手に、応える様に僕も手を差出し握手をした。

 彼女の手はとても小さく、壊れてしまいそうな柔らかな手をしていた。
 
 僕が手を放すと三浦氏は、彼女の肩に手をやり

 「Militza  ミリッツァ」妻だと紹介した。

 彼女「ミリッツァ」はふと僕と律ねえの前にある「カヌレ」を見て

 「そう」

 「よかったわ」

 そうつぶやき

 「宜しくね結城」と微笑んだ。

 なんだかとても暖かく名前を呼ばれた様に感じた。

 その横には僕の妖精、「三浦恵美」が恥ずかしそうにうつむいている。
 
 告白の答えも無いまま、僕は彼女と同居することになった。


 風の赴くままに

 まだ僕には、これから明かされる彼女の大きな苦しみと、悲しみを受け入れなければならないことを、想像すらしていなかった。

 あまりにも切ない、恵美の音色を。

 僕が彼女「恵美」と一つ屋根に暮らし始めたのは、夏休みもあと残り僅かとなったころだった。



Black sweet ・Canelé

ブラック・スゥイート・Canelé カヌレ

第1巻 夏雲のように 

終わり

著作:榊原 枝都子


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ブラック・スゥイート・Canelé カヌレ

第2巻 届かない願い First part 前篇

First part Notice

あの時、告白した返事を恵美はしてくれた。でもその返事は、納得のいく答えではなかった。恵美の過去にある悲しい想いが、その答えを物語っていた。

恵美と一つ屋根の下での生活も2ヶ月が過ぎた。

三浦氏との間に小さな壁を作っていた僕は彼の妻、ミリッツァの振舞いにより、綻びも少しづつほどけていた。
恵美と共にある新たな日常もゆっくりと動き出していた。

恵美にとって忘れる事の出来ない日。だが彼女は、前の晩9時を過ぎても家には帰って来なかった。胸騒ぎが治まらない僕は夜、駅に恵美を探しに向かった。

なぜその日が、恵美にとって忘れられない日なのか、その答えを知っているかの様に、先生は、行先も告げづに僕を連れ出す。その地で僕は、恵美の過去にある悲しみと苦しさを知ってしまった。


第2巻 「届かない願い」は、前篇、後編の2部構成にてお届けいたします。