Owe it to the wind --風に任せて--

 その日は 朝からまぶしいほどの日差しが降り注いでいた。昨夜、久しぶりに 村本 孝義(むらもと たかよし)と電話で話をした。

 彼もまた、僕のことを心底心配していたようだった。僕からすると少し信じがたい面もあるんだが。

 まずは、明日僕の保護者に名乗りを上げた人物に会いに行くこと、この家を出なければならないかもしれないこと。これはほぼ確定事項かもしれない。

 そして、孝義から三浦 恵美も心配していたことを告げられた。

 「お前本当に、振られたんかよ、三浦なんか俺にお前のことどうしているかとか、よく聞きに来てさ。最初、俺も分けわかんなくて、「俺もわかねんだよ」ってちょっと強くいったら大声あげて泣かれちまってさ、まいったよ。」

 そういえば、僕は三浦恵美からのはっきりとした返事をされていなかった。あの時、舞い上がった僕は、もしかしたら勝手に返事を作り上げていたのかもしれない。しかし、今となってはもう僕的には、過ぎたことだった。


 次の日の午後、律ねえから受け取った三浦氏の店の住所を頼りに、僕は 「カフェ・カヌレ」を目指した。
 
 その住所は、あの橋の駅のある街だった。やはり、一抹の不安は、否定できなかった。
 
 あの日、三浦 恵美と初めて出会ってから、およそ一年と三か月の間、日曜日の晴れた夕方に、あの河川敷の公園に行き彼女の奏でるアルトサックスを聴いている。

晴れた夕方、しかも日曜日限定だった。彼女のいた確率はおよそ六割。後の4割は空振りに終わった。

特別彼女との会話はなかった。そしてまた彼女も僕の存在に氣づいていたが、話しかけては来なかった。お互いの存在を感じながらも・・・

 僕は久しぶりに、あの河川敷の公園へ赴いてみた。

 当然のことながら彼女は、いなかった。

 僕は、わざわざ彼女 三浦恵美がいないことを確認に来ていたのだ。今日、三浦氏の店 「カヌレ」へ赴く日に、いつもの、日曜日の夕方ではない日と時間に。

 思わず苦笑いをしてしまった。 

「俺っていつからこんなにセンチメンタルになったんどろうって」

 ふと、三浦氏との約束の時間が迫っていることに気付く。

 しかし、便利な時代に僕らは生まれてきたんだろう。

 スマートホンに目的の住所を打ち込むとGPSで自分の現在地から目的地までの道のりと所要時間を計測表示してくれる。


 僕はそれを見て、焦った。


 自分の表示位置と、目的地の表示ピンが、同じところを指していたからだ。僕は、地図を拡大して住宅を表示させ、それを見て、あたりをぐるっと見渡した。

 堤防と同じ高さに、5階建てのマンションが立ち並び、きれいに区画整理された住宅地が目に入った、その一角に、ログハウス風のしゃれた喫茶店いやカフェがあった。

 入口の両脇にある樅ノ木(もみのき)が、その店の雰囲気を感じ取らせているかのように、どっしりと構えていた。


 なぜ、一年半近くもこの場所に足を運んでいたのに、今の今間で気が付かなったのだろうか。


 玄関の前には、がっちりとしたイーゼルに木製の大きなプレートが置かれていた。

 ライトアップされたプレートには「Pâtissier Masaki Miura」「Cafe Canelé」と木製プレートに焼印されていた。
 
 分厚そうなウッドドアの前に立った時、その香りは僕の心を揺さぶった。ほのかに香る。澄み切ったような甘い切ないコーヒーの香りとオーブンからだろう、たまごと小麦粉が程よく香(こう)ばしく解き放つ香りとが。

 僕は、その分厚そうなウッドドアを押した。と同時に、「カウベル」が、カラカランと鳴り響いた。ドアは思いのほか軽かった。

 店の中に一歩踏み込もうとしたとき、「いらっしゃいませ」と、どこか聞き覚えのある声で迎えられた。

 顔をあげて、その声のほうを向くと、そこには赤いベレー帽に黒のオープンシャツを着こなした、三浦 恵美が少しはにかみながらいた。

 僕はいきなりの出来事にただ茫然としていた。

 だが、心の奥底では、安心感が宿った。
 
 「なぜだろうか」

 一瞬の沈黙を切り裂いたのは彼女からだった。

 「意外と早かったじゃん」

こっち来てすわってて、今パパ呼んでくるからと照れ臭そうに、僕をカウンターへ招いた。


 意外と早かった? 


 彼女は僕が来るのを知っていたのだろうか? 

 ふと彼女の示すカウンターへ目をやった。
 
 そこは、目に鮮やかな洋菓子がずらりと並んだショウケースと斜めに、5席ほどのカウンターが見えた。そのカウンターは少し離れたところから見てもわかるほど、高級感があり鈍い黒の光沢が、その存在感を座るものに問いかけているようだった。

 よほどの、常連でなければ まっすぐにこのカウンターへ座ろうとすることは出来ないだろう。

黒塗りのアンティークチェアの背もたれが、凜とその容姿を醸し出していた。窓越しには、アンティーク調のテーブル席が、3セットあり、その窓からは、彼女 三浦恵美が、アルトサックスを奏でる、運河のような河川を眺めることが出来た。

 そして、その並びに大きなテディベアがロッキングチェアに座り、静かに夕方の河川敷を眺めていた。

 カウンターの椅子に座ろうとしたとき、カウベルが高らかに響いた。その音の方を見ると、息を切らしながら店に入る 「律ねえ」 の姿を見た。
 
 よっぽど急いで来たのだろう、ウッドドアの前で膝に手をやり、前かがみになり息をはあはあさせていた。
 
ふと頭を上げると

 「あちゃ 結城君もう来ていたんだ。」 と息が落ち着かないまま話した。
 
僕はやっぱ外では「結城君」なんだと、律ねえを見てはにかんだ。彼女は、僕の方を見るなり、顔をさらに紅葉させて軽くうつむいた。
 
 「どうしたのさ 律ねえ?」
 
 「ははは。」
 
 「今日ここには僕一人で来るようにって言ってたじゃんか」
 
 「もしかして僕のこと心配で?」

 「まーね」

 「まったく子供扱いなんだから、そんなに僕って頼りないかな。」

 ちょっとふてくされてように、律ねえを睨んでやった。

 ちょうど弟が、姉貴に甘えるような感じに。

 
 「いやー待たせてすまん」
 
 奥の厨房の方から低音の太い声が、こちらに向けて発せられた。

 
 そこには、背の高いがっちりとした胸板の厚い熊のような男性が立っていた。

 頭には、黒の低いコック帽をかぶり、がっちりと型とられた黒のコックコートにオレンジ色のチーフが首元を引き締めていた。

 彼は、こちらを見るなり

 「あれ!律っちゃんも来てたのか」
 
 と、律ねえをはにかみながら見つめた。

 「だってちょっと心配だったから。」

 「はは、僕は別に彼をとって喰おうとなんか思ってないよ」

とあごの髭を手で擦りながら僕の方に視線を落とした。

 「ようこそ結城君」

彼は、さっと手をだし握手を求めた。

 とっさに椅子から降りて、カウンター越しに彼、三浦氏と握手をした。その手は、その腕は、ものすごくがっちりとしていて、ごつごつしていた。

 どうしたら、こんな手からあんな繊細なスイーツを生み出せるのか不思議なくらいに。

 「はじめまして、笹崎結城です。」

 「そうか、君にとっては、はじめましてか」

 「そうね、そうかもね」 律ねえがつぶやいた。

 三浦氏が「ふう」と一息ついた。

 「そうか、それでは改めて」

 「ここ 「Canelé-カヌレ」のオーナー兼パテシエの三浦 政樹(みうら まさき)です。僕については、彼女、律っちゃんから訊いている通り。君の父上、いや、ご両親とも古くからの付き合いでね。本当は君とも初対面ではないんだよ。」

 「はい、大体のことは訊いています。」

 「でもどうして、僕のことを・・・」

 「うん、本来であれば、ご両親の親類が受けるのが筋だろうけどね。でも実際はこんな状態だったからね。  僕は君のご両親が事故に遭ってからすぐに、君のもとに行かなければならなかったんだが、まっいろいろと事情があってね。」

 
 しばらく三浦氏は沈黙を唱えた。彼は思い立ったように。

 「今、僕と君のご両親のことを話しても、今の君の状態では理解しかねる部分が多すぎると思う。そのことについては、ゆっくり時間をおいて話をした方がいいと思うのだが・・・」

 三浦氏は視線を律ねえの方に落として俺に問いかけた。

 「なぁ結城君、君は僕の申し出を受けてくれるのかな?」
 
 「それを決めるのは、君自身であるべきだからね。だから僕はあえて律っちゃんに、君一人で来るように伝えてもらったんだ。」

 「ごめんね。姉バカで」と言って律ねえは肩をひょいとすくめた。
 
 あの時、律ねえから三浦氏の話を訊いたとき、僕は特別深くは考えていなかった。むしろその時は、自分の置かれている状況を甘く考えていた。

 仮に誰も、引き取り手が無くても、この家がなくなっても、自分ひとりなら何とかやっていけるのではないかと。

 律ねえから、ある程度、僕が大学を卒業するまで充分過ぎるほどの金額の保険金があることを聞かされていた。
 
無論 律ねえから三浦氏のことを聞かされた時、自分が考えていたことを話してはいた。しかし、その考えはこの国の法律がゆるさなった。

 律ねえは法律のことになるとさすがだった。あんな複雑で堅苦しい言葉が並ばれている世界。それでも律ねえは分かり易く説明をしてくれた。要するに、未成年者は保護者がいなければ何にも出来ないという事に、僕の頭は到達した。

 僕は、三浦氏の問に返事をためらった。