チャプター2
「カラスの独り言」

もし、死ぬ間際一言だけ発することができたら、あなたはどんな言葉をチョイスするだろうか…?
「助けてーッ」
福生が選んだ言葉である。溺れているのだ。唯一水中に自力で顔を出せた折りの一言。こんな早朝に聞いている者などいるわけがない。下半身が役に立たなくとも人は泳ぐことぐらいできる。しかしそれは人間の体が水に浮くということを身をもって知っている場合の話。知っていても水中で足がつって溺れる健全者もいる。いま助けてと叫んだ男の下半身は、無いならまだしも、役に立たないのにぶら下がっているという水中では最悪の条件を満たしている。
女がつくった波紋を福生の波紋が打ち消し、その波紋が川岸にぶつかろうかといったその時、ロビンマスクの仮面を掴んで水中に顔を出した悪魔超人アマゾンのように(たとえが旧い)女が福生を抱き抱え水面に一瞬姿を現す。福生は飛込んだ時、水中で僅かにではあるが女に触れていた!人は死ぬまでに沢山の他人に触れる。愛し合う時、恋人の陰部に。喜びを分かち合い抱き締めあった時、友人の胸に。毎日の通勤電車のなか見知らぬ人の腕に。擦りきれる程、誰かと毎日触れては見過ごしながら生きていく。水中で福生の指が女に触れたのは、あまりに劇的で、人生をゲームオーバーに自ら追いやった女のストーリーを一撃でリセットさせてしまう。またレベル1から経験値を貯め、長いロールプレイングを始めなければならないのだ。女は頭で考えた意志ではなく、本能的に福生を暗い水中から救いだした。
その朝、二人の様子を上空から見ていた一羽のカラスはこう呟いた。
「時は動きはじめた、君は美しい」
このカラスの目にも女は美しく見えていた。カラスの好みなど知るわけもない。どんな顔立ちの人間女性にカラスが異性としての魅力を感じるのか研究している学者もいまい。そんな人がいればお目にかかって話を愛聴したいものだ。しかし、カラスは女を美しいと想ったのだ。その女性の名前は峯岸林檎。
林檎、28歳の夏の早朝の出来事である。