彼女の存在を知ったのは、本当に偶然だった。

 寮の同居人が部屋に置いてあった双眼鏡を発見し、何気なく手に取って景色を眺めていたらヒットしたのだ。
 彼女の姿に。

「稔幡工業」とでかでかと看板のついた少し古ぼけたビルの屋上で、ラジオ体操をしていた。
 多分会社の朝礼なんだろう。かったるそうに体操に勤しむ集団の中、一人だけきびきびと動いている女子社員がいた。

 清楚な制服に身を包み、小柄な身体でピンと背筋を伸ばし、大きく手足を広げたり、ぴょこぴょこ飛び跳ねる。揺れるポニーテール。

 眩しかった。晴天の眩しさと共に瞳に焼きついた。
 
 それから毎朝、決まった時間にラジオ体操をする彼女をぼんやりと眺めた。
 眩しくて痛い。胸に刺さるような感情に耐えられなくなって、とうとう決めた。

 辞めよう。

 当時の俺は夢を手放しかけていた。
 本職では飯が食えず、相方と借りていたアパートの家賃も払えず、背に腹は代えられぬと始めたホストクラブのバイト。

 愛想を振り撒いて、楽しく喋って盛り上げて、自分で設定したキャラを演じる。
 それは芸人の仕事に通じるものがあって、思った以上に馴染めた。
 気付けば売り上げナンバー2。大金を手に入れ、ちやほやされる日々。毎日浴びるように酒を飲んで、一晩中馬鹿騒ぎして、朝日を浴びる頃には人生終わりたくなる。

 当面の生活費さえ稼げたらすぐに足を洗う予定だったのに、ずぶずぶとぬかるみにはまって辞められなくなっていた。
 店のオーナーや先輩が目をかけてくれる分、辞めると言いづらくなり、俺をナンバー1にするためにと笑顔で大枚をはたいてくれる女の子達に対しても、責任を感じたりして。

 そう自分に言い訳をして、夢を捨てようとしていた。
 漫才師として舞台に立ちたい。喋り一つで、観客を沸かせたい。老若男女、日本中の人を笑わせたい。

 それが俺の夢だった。
 ホストになりたくて上京したんじゃない。



「ごめん、まだお前の左空いてる?」

 店を辞めた足で郡司の元に戻って、息を切らせながら尋ねた。
 郡司の泣きそうな顔を見て、間に合って良かったと心底思った。

 郡司曰く、「あと数日遅かったら、新しい相方を探してたかもしんなかった」そうだ。そうしたら今の『とーぐん』はない。
 あれから二年頑張って運よく芽が出て、少し有名になって問題起こして、事務所謹慎を受けて。この一年、心の支えになってくれたのは、やっぱり彼女だった。

 菜々ちゃんは俺の最愛の人だ。


「今日、彼女にプロポーズします」

 挨拶に行った楽屋でそう宣言すると、共演者の串田アイラちゃんが目を丸くした。

「えっ? えええっー!? えっ、生放送で!?」

「はい」

 今日で謹慎が解けて、一年ぶりの生放送番組出演。

「今日の晴れ舞台でと、決めてました。一応サプライズなんで、直前ですみません」

 本番直前までは共演者にも知らせるなとの上からのお達しで、番組のメインパーソナリティである野中さんと一部スタッフ以外には極秘にしていた。
 やっと言えるタイミングになって、さっきから楽屋回りで頭を下げまくっている。
 みんなのびっくりする反応が楽しいし、激励されて気持ちが上がる。

「客席に彼女座ってるんです? うわー、公開プロポーズ! 立ち会うのもキンチョーするー!」

「あ、いや。電話でプロポーズする予定。漫才のネタんなかで」

 最高に緊張する漫才になるだろうことは確実だ。

「ひゃああー、顔が見えないってのも怖いねえ」

 くるくると表情豊かに反応してくれるアイラちゃんに、でしょーと答えた。

「振られたら爆笑してやって。それはそれでオイシイから」

 隣で郡司が言った。