午後、なんとか仕上げた書類を持って、十一階のフロアを会議室に向かって歩いていると、運営部から水嶋さんが出てきた。
目が合うと、足早に近づいてきて、いきなり腕を掴まれる。
突然のことに私が驚いていると、そのまますぐ隣の会議室に押し込まれた。

「な、なんですか! 突然」

誰もいない会議室は静かで私の声だけがやけに響いた。

「大澤、俺がお前をかばって階段から落ちたこと、なんでみんな知ってんだよ?」

水嶋さんは私を壁に追い詰めて、怖い顔で質問する。

「知りませんよ! 私、二課の人にしか言ってないです」

「そこから広まったんだろうが」

「そんなの……仕方ないじゃないですか。課長には報告しなくちゃいけないし」

水嶋さんは、ふうとため息をついて「それもそうか」とつぶやく。

「でも、女子社員をかばって骨折したなんて、格好いいじゃないですか。隠すことじゃないと思います」

武勇伝ですよ、と付け足すと水嶋さんは、「そういうことじゃなくて」と首を振った。

「大澤、今俺は大澤を助けたことで好感度がものすごくアップしている」

「え? あ、そうですね、はい」

「それなのに、もし俺がその大澤を住み込みで働かせていることが知られたら、この好感度はどうなると思う?」

「……急降下、ですかね」

「だよな。弱みに付け込んでただ働きをさせてる悪いやつだって思われるよな」

「言い出したのは私ですけど」

「そうだけど、周りから見たら、俺がさせているみたいじゃないか」

私は黙り込んだ。
つまり、同居生活は中止ということか。
それなら願ったりかなったりだ。

「でしたら……」

「だから、付き合ってることにしよう」

「……は?」

冗談かと思って水嶋さんを見上げると、水嶋さんはいたってまじめな顔で私をじっと見ていた。

「どういうことでしょうか?」

「だから、助けたことがきっかけで付き合ったことにしよう。それなら、一緒に住んでることがばれても好感度は下がらないだろ」

「下がらないかもしれませんが……彼女と住んでいるってことになりますよね? コンパとか行けないんじゃないですか? それはいいんですか?」

「いいんだよ、一ヶ月だけだろ。その後は円満に別れたことにすればいいから。だけど、一ヶ月間は仲のいい恋人を演じてほしい。水嶋さんって彼女をすごく大事にするんだ、って好感度がまた上がるだろう?」

「なるほどですね」

なんだかまじめに話しているのがばかばかしくなってきた。
どっちにしても、一ヶ月。
一ヶ月が経てば、この女好きでモテることしか考えていない人とも関わらなくて済む。

「と、いうことで今から敬語禁止」

「はい、じゃなくて、うん」

「水嶋さんって呼ぶのもやめろ。夏生くんでも、夏生でもなんでもいいから」

「なっきーでも?」

「……それはちょっと」

「冗談ですよ」

私は笑いをこらえながら腕時計を見ると「そろそろ行くね」と言う。

水嶋さんは満足そうに頷いて「じゃあな、しずく」と言った。