驚いて手元が狂い、水を注いでいたグラスが派手な音を立てて倒れた。
「……失礼しました。」

落ち着け。
心に冷たいものが降りてきて広がっていく。

俺は無理やり笑顔を張り付かせた。
「それはおめでとうございます。お相手は、ずっと付き合ってらしたかたですか?」
注ぎ直したグラスをなっちゃんに差し出した。

「ええ。卒業したら、横浜の旧家に嫁ぎます。」
……横浜?

喉がカラカラになり、くっつくようで不快に感じた。
「遠距離恋愛だったんですか?」

なっちゃんは顔を歪めた。
「半年だけ。」

……てことは、3月までは神戸近辺にいたってことか。

テーブル席のお客様達が席を立った。
お代金をちょうだいして、お見送りする。
後片付けをしてから、カウンターに戻った。

「何でそんな顔してんの?照れ隠し?」
なっちゃんは、全く幸せそうに見えなかった。

「別に。」
ぷいっとそっぽを向いたなっちゃんは、ちょっとかわいかった。

俺は無言で、コーヒー豆を選んだ。
酸味の強めの豆を細かめに挽いて、わざと雑味を出す。
少し少なめにサーブして、なっちゃんの前に出した。
酸味が苦手ななっちゃんは、少し顔をしかめた。

「仕上げに、これを入れる……と。」
棚からコニャックの瓶を出してきて、なっちゃんのコーヒーカップにトポトポと注いだ。
何とも言えず心地いい薫りが立ち上った。

「……ずるい。」
アロマにうっとりとしてたくせに、なっちゃんはそう言った。

「旨いよ、それ。」
俺がそう言うと、なっちゃんはム~ッとふくれた。
「美味しくないわけないじゃない。こんなの。……もう!」
なっちゃんはそう言って、コーヒーに口を付けた。

閉じたまぶたにアイシャドウが映えて、色っぽく感じた。
意志の強そうな眉に、冷めた瞳。
カップについた赤い口紅を指で拭いながら、なっちゃんは言った。

「美味しい。夢の中に誘(いざな)われる。」
夢、ね。
俺は小さなグラスを2つ取り出して、コニャックを注いだ。

「どうぞ。」
1つをなっちゃんに渡して、1つは両手で包み込む。
少し温めて香りを楽しんでから、口に含んだ。
芳醇な香りと味わいが体中を駆け巡る。

「チェイサーもどうぞ。」
大きめのグラスに水を注ぎ、なっちゃんに差し出した。

「いらない。胃の中でも薄めたくない。」
なっちゃんはそう言って、コニャックをゆっくり舐めた。

「そうだね。イイ酒は原酒で味わうのが一番。加水も氷も邪道。うまいだろ?」
……しかし、まさか、なっちゃんと酒が飲めるとはね。

うれしくなって、俺も腰を落ち着けて飲みたくなった。
でもなっちゃんは、いつまでも仏頂面だった。


「結婚したくないのに結納したの?」
そう聞くと、なっちゃんは吐き捨てるように言った。

「仕方ないじゃない。私が片付かないと母が再婚できないって言うんだもん。」
……何だ?それ。
「大瀬戸さん、再婚するんだ。おめでたいけど……何で、なっちゃんの結婚が関係してるの?」

なっちゃんは、ため息をついた。
「私も聞きたいわ。……母の再婚相手が後ろめたいんじゃない?私に独り暮らしをさせることが。」