碧生くん、もう、東京に帰ってしまうの?
「また、逢える?来てくれる?」

そっと手を放して、碧生くんは私の目を覗き込んだ。
「百合子が来てほしいなら、来るよ。」

私は深くうなずいてから言った。
「来てほしい。」
ホロッと涙がこぼれた。

「ごめんなさい私、ワガママよね。ずるいよね。」

碧生くんは私の涙を親指で払ってくれた。
「いや。うれしいよ。俺に甘えてくれて。」

甘えてるよぉ。
どうしようもなく、依存してる。

「365日24時間、そばにいてほしい。私によそ見させないでほしい。」
ワガママついでにそう言ってみた。

碧生くんは眉根をひそめた。
「それが百合子の望みなら、いいよ。卒業するまで待てないなら、東大を辞めて、京大の受験からやり直してもいいし、百合子の大学に3年から編入してもいい。」

また涙がどーっと流れた。
「違う。そんな無駄なこと、望んでない。」
「うん。わかってる。百合子も俺も、あの人のように破れかぶれにはなれない。小利口で、常識と理性が邪魔をして。だから、今はあの人に敵(かな)わない。」

碧生くんが拳を握った。
あの人が泉さんを指すことは言うまでもないだろう。


私は、碧生くんの肩に頭を預けた。

「なぐさめてくれてるの?」
碧生くんの声が少し和んだ。

「わかんない。わかんないけど、碧生くんと仲良しだと幸せだから。碧生くんもそうならいいな、って。」
私はそう言ってから、思い切って続けて言った。
「うまく言えないけど、安心感とか信頼感とか一生こんな風に一緒にいたい、って思うのは、泉さんじゃなくて、碧生くんなの。」

嘘じゃない。
信じてほしい。

私の告白に、碧生くんは目を細めた。
「ありがとう。うれしいよ。じゃあ、百合子が闇の世界に連れていかれないように、これからもそばにいるよ。」

それでいいの?
却ってつらくないの?

こんな風に、泉さんに抱かれて帰ってきた私の世話を焼いてくれる碧生くん……もちろん私もいたたまれなく申し訳ない。

同時に、碧生くんにも身を委ねたくなる。

さすがに今日はまずいだろうけど
……って、今日じゃなくても、ダメかしら。



「『とはずがたり』は読んだ?」
碧生くんにそう聞かれて、首をかしげる。

「名前は聞いたことはあるけれど、古典の授業で習わなかったと思う……わからないわ。」
「まあ、中高生には刺激が強すぎるかな。昭和15年まで宮内省がひた隠しにしてたぐらいだからね。」

苦笑してから碧生くんは少し説明してくれた。
鎌倉期の女官の自伝らしいけれど、複数の男性との恋愛について赤裸々に語られてるらしい。

「後二条院が退位した後二条帝だけどね、なかなかのアブノーマルというか、『寝取られ』好きなんだよね。兄弟で3Pっぽい記述もあったり。」

言葉が出ない。

そんな古典があることもだけど、碧生くんの口からそんなポルノ小説のような話を聞くなんて。