「光人(りひと)くん、ご機嫌ね。碧生くん、ありがと。」
そう言って知織さんが赤ちゃんを抱こうとしたけれど、碧生くんは渡さなかった。
「着物が汚れるよ。終わるまで俺が面倒みてるから。……一条さんは?」

知織さんはスマホを見て苦笑した。
「やっと事の重大さを理解したみたい。事務所から出られないって嘆いてるわ。自業自得よね。」

「CMの契約期間は終わってるんだよね?」
きんきらきんの派手なお衣装を着付けた恭匡さんが楽屋に戻ってきた。
直面(ひためん)なのに衣装に負けてないことが意外だった。
着慣れているというか、板に付いているというか……。

「ええ。賠償金を払うはめには陥らないと思います。今後のイメージの問題ですね……事務所も私も、できたら独身を通してほしかったかったんですけど……本人が耐えられるかどうか……」
一条さんは、既婚で子供もいることを早く発表したいらしい。

休憩時間の終わりを告げるブザーが鳴った。
慌てて客席に戻ると、水島くんはもういなかった。

舞台が始まる。
子供達の連吟や仕舞に和んだ後、おじさま達のいぶし銀な謡と仕舞が続く。

最後に、恭匡さんの『石橋(しゃっきょう)』は、半能という形で後半部分のみ行われた。

「座っちゃおう。」
乱拍子の中、小声でそう言いながら碧生くんが赤ちゃんを抱っこしたまま私の隣、つまり水島くんがいた席に座った。

キュンと甘く胸が疼いた。
今日まだ一度も碧生くんに触れてないことに気づいて……私は赤ちゃんにまでちょっと焼き餅を焼きそうだった。

そんな私の気持ちはお見通しだったのか、それとも、碧生くんもまた同じ気持ちだったのか、赤い子獅子の恭匡さんが軽やかに飛び跳ねるように舞台に入ってきた瞬間を狙って、私の頬にキスしてくれた。

……ただそれだけのことで、私は天にも昇る気持ちになれた。

恭匡さんは、碧生くんの師匠にあたる玄人の能楽師さんとの相舞なのに、全く力負けしてなかった。

「すげぇ……」
碧生くんが目をキラキラさせて見とれていた。

反対側の隣では、母が涙を流していた。
私よりはるかにお能に造詣の深い2人が感動していることにホッとして、安心して恭匡さんの「お披き」を拝見した。

終演後、何もご存じない人々が、恭匡さんを玄人の能楽師さんだと信じて疑わないことが誇らしかった。

「てゆーか恭匡さん、プロでもやっていけるんじゃないですか?びっくりしました。」
知織さんが光人(りひと)くんを碧生くんから返してもらうために道行きを着ながらそう言った。

「……幼少期からそう嘱望されてきましたが、その意志はないようです。あくまで趣味でいたいのでしょう。」

母が、先ほど泣いていたのが幻だっかのように、すましてそう言った。