さて、3年生である。
 理系トップクラスの担任は咲良先生、との情報を事前に入手していた美園は、なんとかそこに食い込むことに成功した。愛の力は偉大である。

 3年生ともなると、さすがに遊んでいるわけにもいかない。塾も毎日あるし、部活もなくなり、先生と二人でじっくり話すチャンスは殆どなくなったと言ってよかった。

 先生だって忙しい。近頃は寧ろ、美園を避けるかのように、彼にはあるまじき仕事熱心さであった。

 そこで、GW後直後にある『修学旅行』である。

 美園はある決意を胸に、その、高校生活最大の行事に臨むのであった。
 

  受験前ということもあってか、2泊3日、国内旅行といまいち盛り上がりに欠けるこのイベントは、代々評判が悪い。

 ガイドに引かれて観光地をついて回る生徒も、女子高ということもあり、大人しいものである。

「先生、A組点呼、終わりました。」

「ああ、ご苦労さん。じゃあ夕方まで解散。」

 旅行のメインイベントである、1日目午後の自由行動が始まった。めいめいが仲の良い友達と三々五々に散ってゆくなか、美園はひとり、そこに残った。

「どうした、篠崎は一人か?」

「いえ、後でミキちゃんと。」
 
 堂島ミキとは、3年生でクラスが別れている。美園は、大きく深呼吸を二つし、徐に切り出した。

「先生、ちょっとだけ、いいですか?」
 
「…何だよ、怖いな。」

 胸ポケットにやりかけていた手を止めて、咲良は美園を振り返える。その表情には何の屈託も感じられない。

 残っている生徒は疎らである。

 美園は咲良をせっついて、宿の屋上へと連れ出した。

「何だよ、改まって。まずいんだよなあ…、特にお前の場合はよ。」

 風の強い屋上である。口元を手で庇いながら、煙草に火を灯した。

「…今日で、丁度100回目です。」

 ポニーテールが風に靡く。咲良は、知らずを装おった。

「何がよ。」

「今日は、本気です。っ…先生の事が…。」

「あー、分かった分かった、分かったから、な。もう、いいって。」

「茶化さないで下さい…言ったでしょ、…本気の返事を返して下さい。」

 呼吸が止まる。風が止み、景色さえも止まって見える。

「私は、先生の事が好き。…先生の気持ちが…知りたいです。」
 
 自分の鼓動の音だけが、耳の中で反響した。

 咲良は、いつも困った時にそうするように頭を掻いた。

「…困るんだよ、本当に。」

 俯いた美園の肩にそっと手を置いた。

 
  「なあ、篠崎?俺、先生なんだよ。分かるよな。人としてのお前個人がどうこうっていう以前の問題なんだよ。」

「いいか?」

 「先生は生徒を、恋愛の対象にはできない。俺が先生でお前が生徒である以上、俺とお前がどうこうなることは、…絶対にない。」
 
 じっと俯く。心臓の音がうるさいくらい耳腔内に響く。

「でも!」

 尚も食い下がる。

「私の事が、嫌いって訳では…ないんですよね?」

「まあ、そういう訳じゃあないけどな。…寧ろ、いい生徒だ。まあ、前提条件に立ってないってことだな。」

「…それだけ?」

「ああ、それだけ…ん?」

 美園は笑っている。咲良は気がついた。嵌められた。

「じゃあ、私が先生の生徒じゃなくなれば、いいんですよね?」

「は?」 

「私、卒業したらもう生徒じゃないですもん。あと1年、待てば前提条件とやらに乗れますね?」

「いや、そうじゃなくて…。」

「私、勉強ちゃんとやって、大学に合格して…、その時は、はぐらかさずに、前提抜きで答えてくれますね?」

「…くそっ。」

「先生?」

「分かったよ、…但し、現段階でC判定の、志望校にちゃんと入れたら、な。」

「ぐっ…。わ、分かりました…、先生、約束、ですよ。」

「ああ、負けたよ。」

 美園は『約束』をもう一度念押しして、屋上を去った。

「…どうしたもんか、ねえ。」

 棚引く白い煙の筋を目で追いながら、咲良は異郷の空を見上げた。

 

 


 就学旅行から帰った篠崎美園の頑張りには、目を見張るものがあった。
 愛の力は偉大である。

 彼女には、いくつかの変化があった。

 まずひとつに、放課後の部活動を辞めた。これは、この時期の3年生なら、ごく一部をのぞいて皆がすることである。

 ふたつ目は、サボりがちだった塾で、毎日遅くまで通いつめるようになったこと。これも、周囲の流れに沿うものであることは、言うまでもない。

 最後に、咲良先生への熱心なアピールの一切を慎むようになったこと、である。

 これには友人も、驚きを隠さなかった。

 「あんた、そんなこと言ったの。」

 「うん。」

 「へえ、先生よくオッケーしたもんね…。」

 ミキは何か引っ掛った様子である。
 
 「どうしたの?」
 
 「う、うん、何でもない。まあ、精々頑張って。」

 塾に通うため、信号のある交差点でミキとは別れた。

 あの後、少しの間だけミキまでが「先生、渋いじゃん。」と騒ぎ出したのには閉口したが、直ぐに飽きてしまったようで、ホッとしている。



 ーー最後に交わした約束は、彼女にとって真摯なものであったのだ。


 

 
 

 季節は移ろう。

 今年の夏は難なく過ぎ、秋、そして冬と変わった。

 受験生に、季節感は無用である。ただ刻々と、本番が迫っているという実感に過ぎない。

 世間がやれクリスマスだ正月だと浮かれていたとしても、それはセンター試験の時期を告げるイベントだという程度であった。

 そして2月、センター試験で目標点をクリアした美園は、担任の咲良に約束事を念押しして、都心にある志望校の受験会場へと旅立った。


 
「あなたも結構酷いこと、するわね。」

 保健室である。

 殆んどの3年生が、二次試験に旅立った今、学校に残る生徒は少ない。

 3年生の担任団は漸く一息をついているところである。
 
 ちゃっかり5限目の2年生クラスに自習を与えた咲良一路は今、保健室でコーヒーを楽しんでいる。

「…今は大事な時期だ。刺激したくない。」

 月代緑は、彼の首に腕を絡めた。

「嘘。自分の信棒者を、失いたくないだけだわ。」

「止せよ。学校だ…んっ…。」

 彼女は彼の唇に、自分のそれを押し当てた。
 
 咲良は首を振ってそれから逃れる。

「止めろって。」

 カッターシャツの袖口で、唇に付着したグロスを拭きとると、彼女の悪戯を嗜めた。

 月代は、眉をしかめた。

「不安なのよ。…貴方が、揺らぐのが。」

「学校でする話じゃない。」
 
 咲良は剣呑だ。

 項垂れた月代に、咲良は小さく囁いた。

「…前に言った通りだ。…俺はもう、答を決めてる。」
 
 西日がカーテンの隙間から差し込み始めた午後の保健室では、ストーブの上のケトルが喧しく鳴り始めていた。

 
 「先生?」

 3月18日、卒業式を終えた。

 校門からは、卒業生や父兄や下級生でごった返した喧騒か引け、皆はそれぞれの予定に散っていったところである。

 一息ついて教室に戻ろうとした咲良に、篠崎は卒業証書の入った筒を見せた。

「ああ、合格おめでとう。来月からは都心に引っ越しだな、良かった。」

 屈託なく笑う。

「先生、約束、覚えてますね?」

 真っ直ぐに見つめた眼に、思わず視線を逸らした。

「篠崎。」

「私、もう生徒じゃありません。」

「…ちょっと、場所を変えようか。」

 人気のない視聴覚準備室は、かつて長い時を供に過ごした場所である。

 ドアを開け放して、咲良は一服を取り出す。

「先生?」

「…よく、というか、結構居るんだ。お前みたいな娘。実習生の時も、塾やってた時も。」

「私は!そんなんじゃ…」

 ない。そんな軽い気持ちでは、断じてない。

「うん。皆、好きだって言ってくれて、やがて離れていった。…初めてだったよ、2年間も、100回も言ってくれた娘は。人生で始めてだ。…だから、嬉しかった。」

「じゃあ…。」

 美園の胸は、自然高鳴る。

「…そして…終わるのが淋しかった。」

 咲良は立ち上がり、ドアに向かって手招きした。

「月代…先生?」

 月代緑が、何故ここに居る必要がある。

 美園は混乱を隠せない。

「篠崎。先生な、好きな人がいるんだ。」

 すきな…ひと?咲良先生に?

「…だから、お前が生徒じゃなくなっても、お前の心にも応えてやれない。」

 生徒じゃなくっても?

「来年、月代先生と結婚しようと思ってる。」
 
 咲良は、月代緑の肩を抱き寄せた。
  「咲良先生…、ちょっと。」
 
 困惑する月代緑をよそに、咲良は彼女を離さない。

 美園はフラりと立ち上がった。

 目の前にある現実が、テレビを見ているように現実味がない。

 分からない。羞恥で逆上せあがり、頭がズキズキし始めた。

 覚悟して来た筈だったのに。

「私が…嫌いだ…ってこと?」

彼は首を横に振った。

「そうじゃない。」

 ただ…、遅かった。

 大人になるのが。

 しかし、もし美園が大人であれば出会うことすらできなかった。

 つまり、そういう事だ。

 あり得なかった。最初から。

 突きつけられたのは、残酷な現実ーー。


 その日、涙は枯れないものだと知った。

 夕暮れの視聴覚で、恋敵の筈の月代先生に背中を撫でられながら、その張本人に見守られながら、沢山泣いて、

 2年間の、本気の恋は、終わった。
「一人で大丈夫かい?美園。」

「うん、じゃあ、来週。」

 来月からは、都心の学校に通う学生である。

 今日、仕事の忙しい父を気づかい、一足先に、一人で向こうのワンルームマンションへ引っ越してゆく。

 後に、南の地方の専門学校に進学が決まっていたミキちゃんから聞いた。

「ごめんね。私、知ってたんだ…。ホテルで、月代先生が教えてくれた。…でも、あんまり美園が頑張ってるからさ…。」



 だが、不思議なことに、苦しかった想いは、流した涙と一緒に抜け落ちたらしかった。

 一時は恨みもしたが、彼がきっぱりと引導を渡してくれたからなのかも知れない。

 桜の蕾が綻ぶ季節である。

 先生はきっと、次の学年の準備に忙しい頃だろう。

 顔を見たら、今はまだ辛いから、挨拶はせずに行くつもりだ。

 …いつか、先生よりずっと格好良い人に出会って、同窓会でメモ用紙を見せられて、笑って会えるその日まで。

ーおわりー