施設で育った。

 自分と同じ高校の教師をしていた父親は、10歳になる頃に母とともに亡くなった。親戚の家を転々とした挙げ句、この町の児童養護施設に預けられた。

 待遇に不満があった訳ではない。みな一様に親切で、言うことさえ聞いておけば文句を言われることもなかった。

 が、自分の身に起こった不幸を受け止めきれなかった。

 (なんで、俺だけ?)

 荒ぶる気持ちが、彼を同じような連中の元へ向かわせた。実際、中学も終わる頃の外での行いは、決して誉められたものではなかった。
 
 そんな時だ。

 彼女に出会ったのは。

 コンビニでたむろする仲間の中に、彼女はいた。取り立てて美人ではなかったが、小柄でジーンズの似合う、よく笑う子だった。車が好きで、自分でよくいじって、いつも手が真っ黒だった。
 
「変わってるでしょ。」

「いいや?ちっとも。」
 
「キス、する?」

「うん。」

 女の子と、初めてのキスをした。やり方が分からなくて、ひどく笑われた。
 噛まれた唇がちょっとだけ痛かった。
 
 その当時の仲間たちは、誰が来て抜けたか、誰が誰とくっついて離れたか、なんて気にするものはなかったから、二人がそんなことをしていても、何も言わなかった。

 ほどなく、頭は悪くない方だったから、咲良は地元の進学校に進んだ。

 と、コンビニでたむろする事も少なくなった。次第に彼女とは距離が生まれ、会うことも、次第に減っていったーー。

「咲良ぁ。」
 彼女が校門の前で待っていたのを見つけた時、咲良は一緒に歩いていた友人達から逃げるように、彼女を連れだした。

 まるで気付かない彼女に苛立ちながら。

「何か用?」

 つっけんどんな語調を気にする様子もなく彼女は笑った。

「最近来ないからどうしてるかと思って。」

「忙しいんだ、勉強とか。」

「ふうん、大変。」

 坂道を上りきり、友人達の目から離れると、途端に前に戻った気がした。

 わざとゆっくりと歩き、昔のようにふざけ合い、笑い合った。
 
 やがて、急に押し黙った彼女は、夕暮れに紛れてそっと左手を差し出した。
 
 その手に右の手でそっと触れると、うつむき加減に弱々しく握られた。

 その華奢で小さな手を強く、強く握り返したーー。
 

 
 咲良は、学校の友人の目を盗んで彼女と再び会うようになった。

 件のコンビニではなく、二人で、だ。
 何度も唇を重ねた。もう前みたいに笑われたりはしない。

 「ん…。」

 思う様に舌を絡め合う。恍惚と、頬を高潮させる彼女が愛らしかった。

 学校を終えるとすぐに、彼女の安アパートに向かうのが日課となっていた、ある日のことだ。

 咲良は彼女の素性を全く知らなかった。年齢も、家族構成も。二人の間に、そういった話し合いは一切なかった。彼女は独り暮らしをしていた。

「どうしたんだ。」

 顔を赤く腫らして、膝を抱いて泣いていた彼女にドアを閉めるのもそこそこに駆け寄った。

「誰にやられた、俺がやり返して…」

「いいの!」

 立ち上がろうとした咲良を、彼女は抱き止めた。

「いいのよ。」
 
 求められるままに唇を吸った。血の味が残る口付けの後、躊躇いがちに彼女が言った。

「…セックス、してみる?」
 
 理性は、傷ついた彼女にそんなことをすべきでない、と止めた。

 だが、その誘惑に、若い本能は抗うことは出来なかった。

 衣服を取った彼女は、驚くほど痩せて、華奢だった。その頃の咲良は既に体格が良かったから、抱き締めたら壊れてしまいそうだった。

 彼女が指示するままに、恐る恐る身体に触れる。その度に彼女があげる悩ましい声に、彼女が自分の身体を煽り立てるのに、戦きながら。

 「違う。そこじゃないよぉ。」
 両手で顔を隠しながら彼女は笑い、照れ隠しに自分も笑った。

 二人で、笑い合った。

 それから暫くたったある日のことだった。町でばったり合った昔の仲間の一人から、彼女の事を聞かされた。

 彼女は、“金次第で誰にでもヤらせる女”なのだとーー。

 「どうしたの?そんな怖い顔してさ。」

 いつものように屈託なく笑った彼女に、何も言うことが出来なかった。
 何でもない…。そう言って、ぎゅっと抱き締めた。

「苦しい…よぉ。」

 彼女を冒した。何度も、何度も。肋の浮いたその身体が、手折れてしまいそうな程に。
 
 以来、彼女と再び距離を置くようになった。3年生になり、受験勉強に本腰を入れる必要があった事もある。

 だが、理由はそれだけではなかった。恋人だと、思っていた。裏切られた、そう思った。

 彼女の方も察したのか、向こうから会いに来ることも、もうなかった。

 彼女が再び咲良の前に現れたのは、近隣県の教育学部への進学が決まった後だった。親の残した保険金で、金銭面の問題はなかった。

「久しぶりぃ。」
 
 彼女は相変わらず、笑っていた。

 その頃にはもう彼女に対しての、裏切られたような怒りは消えていたと思う。

 俺たちは、昔の仲間に戻ったような取り留めのない話をした。

「引っ越すんだ。…受かったから。」

 俺は言った。

「へえ。…戻ってくる?」

 首を横に振った。この町に未練はなかった。

「そっか。…じゃあこれ、あげる。後これも。」
 
 彼女はポケットから取り出した車のキーと、腕時計を外し、俺の手に押し付けた。

 昔から突飛な奴だったから、そう驚きはしなかったが、さすがに固辞した。

「いいの、卒業祝い。咲良はあたしなんかに優しくしてくれたから。…それにもう、要らないから…。」

「待てよ、ちょっと…。」

 要らないって、どういうことだ。聞こうとする前に、彼女が言った。

「うん、ケッコンするから。…お金、貯まったの。大好きな人が、そう言ってくれたんだ。…困るから、始末しないとね」

…ケッコンか。ひょっとしたら、あの時の怪我の原因、彼女が身体を売って貢いでいる、と噂のあった奴。身体が熱くなる。…でも、何て嬉しそうな顔。

「そうか。…じゃあ、貰うよ。結婚式には…行かれないと思うけど。」
 
 来たときと同じように、彼女は唐突に去っていった。

 そういえば彼女は、俺と寝ても金を取ることはなかった。彼女にとっての俺は一体何だったのか。

 俺だってそうだ。彼女の身体を貪って、恋人だと決めつけて、その癖学校の友人に知られることを恥じた。

 逃げていた。


 ーー俺達は、その時、大事な話を何一つしなかったんだ。



 彼女の訃報を聞いたのは、それから1年後のことだった。

 男とスポーツカーで、港にダイブしたと、葬式で聞かされた。事故なのか自殺なのか、それすら分からなかった。

 初めて見た彼女の家族は、優しそうな普通の人達に見えた。 「…まあ、だからな?悪い男は沢山いるから、若い女はそういう奴に引っ掛かりがちだという…。」

「つまり片思いの女の子が悪い人に引っ掛かって、それを後悔してる訳ですね。」

「…まあ、そんな感じだ。」

 かいつまんで説明すると、どうも伝わりにくい。

 そのうちに、堂島ミキと月代先生が戻ってきた。

「陰性、だったわ。」

 月代がさらりと告げた。急激に明るさを取り戻したミキが美園に耳打ちした。

(妊娠検査。)

「身体と心が疲れてたのね。ゆっくり休めば、大丈夫よ。」

 彼女はあまりにあっさり言った。先生らしい説教などする気はないようだった。

「ところで咲良先生、さっきの話、あの車と時計?」

 ミキは愉快そうに尋ねた。

「何だよ、聞いてたのか。」

 ばつが悪そうに頭を掻いた。月代とミキは目を見合せて笑った。

「先生って、未練ったらしい…」

「ウルサイ!…急に元気になりやがってよ。」

 咲良は、短くなった煙草の火を消し、灰皿に放った。

「さて、と。じゃあ、そろそろ行くぞ。…本当に悪い奴のところに。」
 「畜生っ!何で出ないんだ!」

 アツシはスロットマシンの台座を蹴った。従業員とおぼしき蝶ネクタイの男にジロリと睨まれ、慌てて座り直す。

 ここのところ、何もかもが上手くいかない。
 大学のレポートも3つ落とした。母ちゃんは仕送りを減らすと言ってきた。負けが込んで、借金は膨らむ一方、明日、また奴らがやって来る。次は、腹を蹴られるくらいじゃ済まないかも知れない。

 今ごろ、ミキの奴は電話の男と…。

 アツシはぶるぶると顔を横に振った。

 そもそもツキが落ちたのは、あいつと付き合いだしてからだ。俺が悪いんじゃ、ない。

 「お?おおっ?」
 
 アツシは目を擦った。ゾロ目が2つ、やったリーチだ、明日の利子が取り敢えず返せる…、手元の玉を注ぎ込む。

 と、その腕を掴んだ不届きな奴がいる。

「ちょっ、今いいとこなんだっ、止めろよ。」
 
 振り払おうとした腕を、ぐいっと引かれた。
「てめっ…あ、と、取り立ての…人ですか?」

 見下ろす真っ黒な男の姿に、アツシはたじろいだ。

 「ちょっと話そうか。」
 
 銜え煙草を鼻のギリギリまで近づけ、立たせた前髪を引っ張り上げた。

 「ちょ、離して…離せったら!ちゃんと着いていきますってぇ。」
 パチンコ店から少し離れたパーキングエリアは、古いビルの隙間の死角だった。

 頭を小突かれながら連れて来られたアツシは、驚いて立ち尽くした。

 「ミキ!…どうして?」

 ミキは俯いた。

 「テメエ、自分の借金返済をこいつに無心したらしいな。」

「は?…いえそれはあなた方の指示で…。」

「黙れ。自分の事は自分でやりましょうって、教えて貰ってるだろ?」

「ははは、はい。それはもう…。ところで、そちら様は一体?」

「この娘の…センセイだ。」

「!」

 どうやら借金の取り立てではなさそうだ。アツシは急に心強くなった。

「は?、なーんだ、センセイ?そうなの?ミキ。」

「…私の…担任。」

 ミキは小さい声で呟いた。

「はっ、何だよ。びっくりさせて…。で、センセイは何でここに?」

「…ホテルに…いた。」

「ええ?ウッソまじで?そんな事、センセイしちゃっていい訳?」

「お前がやらせたんだろうがよ?」

 怖い顔で睨まれ、アツシは怯んだ。

「いいか?テメエの借りた金だ。彼女は保証人でも何でもない。まずは自分、次は家族に、だろ、大学まで行ってそんなことすら知らないのか?」
 
 シラケた顔でこちらを見た。何言ってんだか。

「…ふん。アンタ、そんなえらそうに言えた身分かよ?エンコーしようとした相手が、たまたま自分の生徒だったんだろ?まずいんじゃねえの、え?地方公務員がよ。」
 
「っ…!アツシ、先生は…知ってて、助けてって、私…。」

「大体さ、俺がやらせたなんて証拠、どこにもないんだぜ?ほら、むしろお願いする方だろ、はい、口止め料。」

 一気に、形勢逆転である。唇を歪めて笑った。しかし、
 金の無心に差しだした手は、ガッと掴まれた。

「な、テメエ。…その上ボーリョク?ますますヤバいんじゃね、ミキ、ほら見たろ?ヤバいぜこいつ早く離せよ。」

「アツシ…ひどいよ…。私は貴方の為に…。」

 ふらつくミキを、控えていた美園が抱き止めた。

「…証拠は、あるんだよ。ほら、テメエの借金の証文。」

「な、ミキお前っ…返せ!」
 
 振り上げた拳の腕を掴む。そのまま後方へ捻り上げた。アツシは唸り声をあげ、苦悶の表情を浮かべる。

「ウルサイい男だ。人の話はちゃんと最後まで聞きましょう、って、習ったろ?」

「痛っ、痛いっ!や、止めろ…止めて…。分かった、分かったから!」
 
 手を離すと反動で後ろによろけた。キョロキョロと辺りを見回し、逃げ出そうとした足を、片足で引っ掛ける。浮き足立った身体は、不様にアスファルトにうつ伏した。

「お前に金を貸したカメタさん、知ってるだろ?」

 起こそうとした身体を抑え、鼻先に証文のコピーを見せつける。アツシはコクコクと頷いた。

「あの人、俺の昔の知り合いなんだよ。堂島から手を引いて貰う替わりに、てめえがちゃんと稼げる場所、紹介して貰ったからさ。」

 手を引いて身体を起こす。その手を痛い程強く締める。

「行く気、あるよな?」

 首を精一杯縦に降りつづける。咲良はその手を漸く放した。

 アツシは俯き、涙声で呟いた。

「…こんなこと、…訴えてやる。」

「受けて立つぜ?」

 証文のコピーは有効だった。しかし先生はいつの間に準備したのだろう?
 ミキを支えながら、美園は不思議に思う。…ひょっとしたら…。


 

「あ、いた。ここっすよぉ、センセ~イ。」

 遠くの方の工事現場で大きく手振りする人影が見える。

「マジメにやってる様じゃないか。」

「いやあ、体動かすのは気分いいっすよね。」

 アツシは咲良と美園に材木置場に腰掛けるよう示唆し、自分は派手な黄色のニッカポッカを広げ、地べたに胡座をかいた。

「あん時は、俺もどうかしてたっす。カワイイ彼女できて浮かれてて、イイとこ見せようとして…。」

 咲良が渡した缶コーヒーをグイッと飲む。

「取立て屋に追い詰められて…結局酷い事になっちゃった。センセイが話つけてくれて、俺、感謝してるっす。あのままいったらどうなってたか…。」

 堂島ミキは、来ないと言った。

『冗談じゃない、あんな奴。』

 だそうだ。変わり身の早さには驚くが、元気なのは何よりだ。

 アツシは少し寂しげに笑った。

「ま、肉体労働は、正直辛いっすけどね。俺、これでも頼りにされて…。」

「いやあ、まだまだよ。こいつ。」

 そう言ってアツシの首に太い腕を巻き付けた男に、咲良は立ち上がって頭を下げた。

「親方、お久しぶりです。」

「よ、かずみっちゃん。」

「すみませんね。無理を言って。」

「構わんよ。丁度空きが出来たとこでな、ま、ワシがよう見張っとくけえね。逃げようとしたら、…分かっとんな。」

 『親方』と呼ばれた、お国言葉の大男は、咲良の知り合いらしかった。

「ひでえや、逃げませんよ、親方。…今度は。」

「よっしゃ、休憩終わり、とっとと行きな。かずみっちゃんも、首切られたら、やとうちゃるけ、いつでも来いや。」

「勘弁してくださいよ。」

 もう少し休みたそうなアツシの首根っこを掴み、二人は仕事に戻っていった。 人は変わるものだ、日に焼けて屈託なく笑うアツシに、美園は一種の感嘆を覚えていた。

 …ミキも来ていれば、すっかり見下げきった彼を少しは見直したかも知れない。

「にしても、先生って、知り合いが多いんですね。」
 
 賑やかな街を抜け、川沿いの帰り道を行く。

「就職浪人が長かったからな。」

半ば自嘲気味に、咲良は笑った。

「さっきの親方は繋ぎのバイトやった時、世話になった人。取立て屋のカメタさんは、昔の縁で…まあいいや。」

「先生、1つ気になるんですけど。」

「何。」

「あの時の借用書、いつの間に…。」

「あれ?ああ、あれは…適当。暗がりで、見える物でもないだろ。」

 やはりハッタリだった。美園は得心するが、同時に彼の危うさが心配になった。
 もし、アツシが慌て者でなかったなら、どうなっていたか分からない。

 彼の普段と似合わない熱血ぶりに、自分は飛んでもない厄介事を持ち込んだのではないか、という後悔が芽生えた。

「先生、今回の事で、首になったりは…。」

「…もしその時はまた、塾講師の募集でも探すさ。最も、まだバレてはないみたいだけど。」

 ピース・ライトに火を付けながら、遠くの景色を見るともなく見る。

「月代先生、さっさと帰っちゃいましたね。」

「気まぐれだからな、あの人。でも、いい先生だろ?」
 
 美園は黙って頷いた。月代とは、ホテルを出たところで別れたのだ。

「…今回の珍しい熱血ぶりは、やっぱり昔のカノジョさんの…?」

「…あ?」

 彼は聞こえないふりをし、その後はひとしきり無言であった。