朝早くから、玄関のベルが喧しく鳴る。
 (誰、こんな時間に…。)
 年末休みが始まったばかりであるというのに。眠たい目を擦りながら、玄関を開ける。
 「ミキちゃん!」

 彼女が訪ねてくるのは、実に久しぶりであった。彼女が突然やって来る時、いつもろくなことはないのだが…。
 美園は、曖昧に笑った。心なしか意気消沈しているかに見えた彼女は、薦められるままに部屋に上がった。

 彼女は大抵美園に災厄をもたらすが、最上級だったと言って差し支えない。
 ドアを締めるなり、彼女は美園に泣き付いた。

 「どうしたの⁉一体…。」

 父親はいつも通り、朝早くからいない。懸命に宥めた甲斐あって、漸く高ぶりを収めた彼女は、その理由を切り出した。

「アツシがね、…援交しろって、そう言うの。」

「えんこう?」

 イカガワしい響きであることは、間違いない。

「どうしよう、美園。私、そんな事したくない。」

「ち、ちょっと待ってよ。全然分かんない、何で?彼、ミキちゃんの事が好きなんじゃ…。」

 彼女は再びうわっと泣き始めてしまった。ダメだ、話にならない。再び彼女が落ち着くのを待ち、聞くに徹することにする。

「彼が、スロットで大負けて…。」

 ーー話は2月も前に遡った。パチンコ店で仲良くなった男の紹介で、最初は少しの額だったらしい。敗けが込み、段々気も易くなり、気がつけば額面は100を越えていたという。近頃では、彼の周辺に人相の悪い輩がうろつき始めたという。

 「最初はね、下着とか売ってくれって、頼まれた。」

 ミキは、渋々ではあったが了承したそうだ。そういった商売はテレビで聞いたことがあった。2回、3回を重ねるうちに、要求はエスカレートした。

「でも、その後、彼優しかったから。」

「……。」
 
 昨日のことである。いよいよ首が回らなくなった彼に、再び泣き付かれた。金貸しから、助言を受けたのだという。

「ちょっと待ってよ。ミキちゃんがその…パンツまで売って、何で借金が減らないの?」

 増やそうと、したらしい。勿論露と消えた。

「ねえ、どうしたらいい?」

すがる彼女に美園は困惑した。そんな事、分かる訳がない。

「お父さんお母さんに、言った方がいいよ…。」

「ダメよ!あたしのオヤ、分かってるでしょ⁉」

 彼女は、これで資産家のお嬢さんである。厳格な両親は、話し合うまえに彼女を罵倒するだろう。唯でさえ不仲な彼女が、相談など出来ようもあるまい。

「それでも…。そうだ、先生に…。」

「絶対駄目。学校に知られたら…同じよ、オヤにもバレて、退学になって…別れさせられる。」

 美園は黙り込む。ミキは投げやりに続けた。

「…子供ができたかもしれない。ほら、月代言ってたじゃん、…もう2ヶ月、こないもの。」

 「ウソ。…彼には?」

 ミキは首を横に振った。
 口許を覆う。そんなこと、酷すぎる。勢い込んで、彼女の肩を掴んだ。

「別れた方が、いいよ。ハッキリ言って、ミキちゃんの事、大事にしてるとは…。」

キッと目を剥いた。

「彼の何がわかるの?」

「だって、何で?普通…ヒニンとか、するんじゃないの?」

 務めて冷静に問う。

「…頼めなかったのよ。言いにくくて。」

年上の恋人には、か。

「駄目だよ、ミキちゃん。自分を大事にしないと。いこ、咲良先生なら何とか…」

 キッとミキは目を剥いた。

「お子様のあんたにはわからない。彼、『君しか頼れない』って。私が何とかしてあげないと…。」

「そんなの、ウソだ!」

 ところが、彼女は美園の手を払った。

「…お子様の、あんたに話したのが間違いだった。いい?先公なんかに、咲良なんかに言ったら、あんた絶対許さない。あんたみたいな暗いコ、友達辞めて、…仲間外れにして、学校に居られなくしてやるから!」

「ミキ…。」 

「私が…何とかしないと…。」

 彼女は何かに取り憑かれたような、しかし決然とした顔で、部屋を飛び出した。  悔しかった。至極ありきたりの助言をし、彼女を怒らせてしまった。

 彼女の思い詰めた、異様な眼の輝きが、頭に憑いて離れない。

 小学校の時から、彼女には随分助けられた。気が小さくて物もろくに言えなかった美園は、彼女にくっ付いていることで、性の辛いクラス・メイトから標的にされるのを免れてきた彼女からの絶交は、学校生活での孤立を意味する。

 だから怖い、自分の身がかわいい。

 加えて、彼女の告解の内容自体は、吐き気がするほどに汚く、馬鹿馬鹿しく、おぞましい。何故、騙されているとわからない。ミキちゃん、他の人の話だったらきっと笑い飛ばすでしょ?他のハッキリ言って、引く。
 
 けれど、彼女は親友だーー。

**
 
 一週間、しっかり悩んだ。俊巡の末、美園はある決断をした。

「先生、ご相談があるんです。」

 咲良は、怪訝な顔をした。

「何だよ正月早々に、…お年玉ならやらんぞ。」

 冬休み中ではあるが、受験シーズンとあって、職員室には活気があった。過去問をプリントアウトしていた高城先生が、揶揄の視線を向けた。

「進路指導室で、お願いします。」

「まーた、いつものやつか?それならここでも…。」

「違います、…お願い…します。」
 じっと目を見る。咲良の顔から嘲りが消えた。

「…分かった。会議あるから11時、な。」

職員室を後にする時、高城先生が彼に歩み寄るのを目端で捉えた。

**

「で?わざわざ進路指導室まで呼び出したのは?」

「ここなら、鍵がかかるから。」

 進路指導室は生徒のプライバシーの為、施錠が義務づけられる。ガラス張りで外からはよく見えるから、密室性はない。

「篠崎…あのな、先生…。」

「先生お願い、助けて。」

「篠崎?」

「お願い。ミキちゃんを、助けて。」

「ミキちゃん?堂島?…」

 泣き崩れた美園の肩を掴み、咲良は軽く揺すった。暫くして、気を持ち直した美園は、訥々と語り始めた。

「…そうか。金田先生が心配してたが、そんなことに、なあ、篠崎。」

 先生は、対面机に手をついて立ち上がり、美園の頭をいつもよりは優しく撫でた。

「よく話してくれた。頑張ったな。」

「……。」

「大丈夫、堂島の両親や学校にすぐ言ったりはしない。…あとは先生に任せろ。」

「先生。」

 嬉しかった。半ば賭けだったのだ。厄介事を持ち込んだ事で、嫌がられる可能性、荷が重いと学校に投げられる可能性。いずれもミキの想定と同じ結末。

やはり違う。

私の咲良先生は。

「ただし、だ。1人だけ、相談したい。保健の月代先生に、協力してもらう。」

「イヤだ、あんなひとっ。」

 咲良は咳払いを一つした。

「…身体の事があるだろう?先生じゃ分からないから。それにな…、お前達は好き勝手言ってるけど、いい先生だと俺は思うよ?」

「ミキちゃんの…からだ…。」

「な?篠崎。彼女は、信用できる。


 美園は頷くほかなかった。  1月7日、夜は8時を回った。

 目立たない紺のダッフルコートに顔をマフラーで覆った堂島ミキは、指定されたシティホテルに向かう。

 「203号室」

 部屋の番号を告げると、フロント係に疑われることもなくチェックインできた。

 途中まで心配して付いてきてくれた彼とは、近くのパチンコ店の前で別れた。

 「打って待っててよ。」

 申し訳無さそうに俯く彼に、笑いかけさえしたのだ。

 エレベーターのボタンの『2』を押すと扉を閉め、引き返す道を遮断するように、“ヴィン”とモーターの回る音をさせながら、ゆっくりと彼女を押し上げた。


**

 「入ります。」

 思いきってノックし、ドアを開ける。
 ここまで知り合いに会うこともなく来れた。母親には塾が遅くなると言ってある。上出来だ。悲しいくらい、上出来だ。

 煙草の匂いが鼻をつく。男はベッドサイドに腰掛けて、ピース・ライトを吹かしながら、小さな窓の外を眺めていた。

 「…テメエ…何してんだよ。」

 振り返った男の姿に、ミキはワナワナと身体を震わせた。

 「本当に、来たんだな。」

 男は灰皿に煙草を押し付け、悲しげに笑んだ。

「畜生っ!アイツが…美園がチクったのかよ。」

 ミキは地団駄を踏んで悔し泣きした。
「堂島…。」

「あんな奴に言ったのが間違いだった!点数稼ぎかよ。…友達だと思ってたのに!」

 恐慌を起こした彼女は、持っていたバックや、備え付けのペンやメモ帳を手当たり次第に投げつけた。電気スタンドを手にしたところで、咲良はその手を押さえた。

「落ち着けよ。」

「お金が…いるのよぉ…先生。」

 ひしとすがりつく。

「大体のところは聞いたよ。」

「…だったら!」

狂気を孕んだ目で彼女は訴えた。

「先生!お金かして。絶対返すから!」

「……。」

「…そう。駄目なのね、なら先生、私のお客さんになってよ。呼んだんでしょ、お客として。」

 ミキは咲良にしなだれかかった。

「どうして欲しい?見るだけ?触りたい?それとも本番?料金は…。」

「止めないか。」

 下腹に触れようとした彼女の手を払う。

 ミキはカッとなって、つっかかった。

「何よ、先生だって困るんでしょ、こんな所で生徒と二人きり…私、先生が連れ込んだって言ってやるから!」

 咲良は悲しげに笑うのみである。

「何よ、…そう、篠崎美園。アイツね、あんたの事、本気で好きなんだって!笑っちゃうでしょ?あんな奴が。…ね、先生。私なら何だって…してあげる…のに…。」

 とうとう、ミキは項垂れた。

「…学校には…オヤには言わないで。」

「分かってる。」

「先生、私、どうしたらいい?」

「…お前は何も悪い事をやってない。」

「けど…。」

「お前は賢い子だ。どうしたらいいかは、分かってる筈だ。…もう、出てきていいぞ。」

「…あんたら…。」 「ミキちゃん…。」

 姿を現した美園と月代に、ミキは目を逸らした。
 
「…ずっといたのね?」

「…ごめん。」

「…私こそ、ごめん。酷いこと…言って。」

 二人は抱き締め合った。震えるミキの身体が切ない。
 胸ポケットから2本目を取り出す咲良を月代が軽く制した。
 
「さて、と。…そろそろいい?堂島さん…だったっけ?ちょっといらっしゃい。」

 (月代先生まで…どうして?)

 ミキは耳打ちした。
 
 (ふっ…、一時休戦よ。)

 笑い合う二人を無視して、月代はミキをバスルームへと連れだった。

「…咲良先生、大丈夫なの?こんな…。」
 
 アツシの携帯番号は、美園がユリの兄から聞き出した。
 咲良は彼と直接にコンタクトを取り、自らミキを呼び出した。

 かなり乱暴で彼にとってリスクの高い処置であると、美園にでもわかる。

「…似てたから。昔、助けてあげられなかった子に。」

 彼は、さっき月代から止められた煙草を再び取り出すと、深く肺に吸い込んだーー。