時は3か月ほど前に遡る。美園が2年生に進級した、初日のことだった。
新たに赴任してきたその担任は、「咲良一路《さくら かずみち》」と名乗った。
お調子者の堂島ミキが、
「じゃあ、サクラちゃん、サクラちゃんだ」
と騒ぎ立てて、すぐ様、苦い顔をされた。
新任の先生が、若い男の先生だと知り、2ーBクラスは俄に色めき立った。
咲良は、割合均整の取れた顔立ちをしていたし、上背もあった。
年齢は28歳、これまで塾の講師をしていて、新規採用なのだと言った。
暫くの間「サクラちゃん」ブームは続き、美園も多分に漏れず、その1人だった。
ただし、「サクラちゃん」が持て囃されたのは、最初の一月だけ。
理由はいくつかある。彼の愛車が中古のミラだったことや、就活用のフレッシュマンスーツを未だに着ていて爽やかな風情がないこと、新任らしからぬ初々しさの感じられぬ気だるさ、いつも起き抜けのように長髪の寝癖が直らず、どこかくたびれた風采をしていたこと等々、要するに10代の少女の憧れを持続させる素養に欠けまくっていたからである。
ところが美園だけは違った。有体に言えば、しつこかった。
美園だけが、その小さな胸の中で、ミーハーな気持ちを本気にまで着々と発展させていたのだ。
「バカじゃないの?
そんなことしたら先生クビになんじゃん」
ミキは苛々と箸を回した。
「現実に引き戻さないでよ…。そうよ、家まで送ってもらうって約束しただけだよ」
「うわぁ、まさかあのミラで?私ならぜったいムリ」
「…歩き」
「え、でも確か帰る方向…」
「同じだよ?それが何?」
「だって、そんなのただのついでじゃん」
「違う!だって昨日まではそれすら断られてたし」
「はいはい…大体さ、一体アイツのどこがいいわけ?はっきり言って、はしゃいでるのあんただけよ」
「ふん、ライバルが減って精々したところよ」
「あっそ。そうだ、そういえば、ユリのカレシさー」
ミキは話を変え、他の皆と喋り始めた。美園は半ばふて腐れて弁当をつつく。
皆、分かってないわ、オトナの魅力ってやつが。
終業の学活が終わると、美園は弟2視聴覚準備室へと向かう。
彼女は、「郷土史・歴史研究部」の部長をやっている。
といっても、活動は殆どないのだが。
「部活動全員入部」を義務づけられた当学校の制度において、美園以外は全て幽霊部員だ。
それでも彼女は、人気のない第3校舎の3階隅で宿題を広げ、その扉が開くのを待ちわびる。
「おう、早いな篠崎」
しかし、彼女の期待も虚しく、その引戸の扉がガラガラと大きな音を立てたのは夕刻、もいお帰宅時間間近だった。
「咲良、先生…?」
数学プリントの宿題を半分やったところで、すっかり眠り込んでいた美園は、ぼんやりと顔を上げた。
「遅いですよ、もう」
「悪い悪い。職員室に入ると、何かと雑用言われんのよ、コピーだのプリント作成だのなんだの。かったるいのは全部やらせんだよな、新人にさ」
咲良はどんとプリントを置いて手前の事務椅子に腰掛けた。
「なるほど、で、先生はその下請けを私に回す訳」
「ん?まあな」
ニヤッと笑って、煙草に火をつける。
「あ、またあ。禁煙ですよここ、学校内!」
「一本だけ、頼むよ。篠崎」
両手を合わせて拝んでみせる咲良に、渋々承知する…演技。心の内でほくそ笑む。
そう、皆が知らない「サクラちゃん」は
口が悪くて、態度もでかくて、煙草をくわえる仕草がセクシー。寝癖の位置が好き、髪を掻き上げる仕草が好き。私と彼の二人きりの時間、私だけが知っている、私だけの先生だ。
出来るなら、彼が今くわえる煙草になりたい。そうしたら…。鼓動が速まり、顔が火照る。いけない、妙な妄想が、止まらない。
「おい、手、止まってんぞ?…ん?どうした、赤いぞ。熱でもあるのか?」
怪訝そうにのぞきこむ。美園は慌てて手を動かしはじめた。
「はい、すみません…
って、先生何にもやってないじゃないですか!」
「なんだ、もう終わってたのか、早いな」
嬉しげに椅子を立った先生に、美園はもじもじと下を向いている。
「って、まだ残ってるじゃねえの」
「あの、それはそうなんですけど…
ところで先生、この教室って、今二人っきりですよね」
「ああうん。郷土史研究部の活動タイムだからなー」
「そうそう。ちなみに…滅多に人通りもないんですよねー」
「そうだな。第3校舎は遠いし、人は滅多にこねえよな」
「先生!」
徐に立ち上がる。
「私、今までずっと迷ってたんですけど、やっぱり言います!…好きなんです、先生の事、愛してしまったんです!」
「…篠崎…おまえ」
「先生…」
見つめ合う二人ーー。咲良は篠崎に手を翳した。
「いたっ、何するんですか。
せっかく勇気を出して告ったのに」
叩かれた頭を大げさに擦りながら、咲良を睨む。咲良はその頭をさらにぐしゃぐしゃにした。
「サンキュー、11回目のアイのコクハク。ところで篠崎、俺が何の専科か、覚えてるよな?」
「勿論。数学の先生です!」
乱されたセットを直しつつ、自信たっぷりに答える。
「よく分かってるじゃないか、で、今マルつけやってた、30点のプリントは誰の?」
「はい?そんなの名前を見れば…あ、私だ。」
二人は顔を見合せ、微笑んだ…直後である。
「テメエは、嫌がらせか。そんなことバッカやって、遊んでるからだろが、俺をアイしてんなら、数学の成績上げやがれ。」
「うう、数学キライ。でも先生は好き。」
怒鳴られた耳元を抑えながら、嘆く美園。
「好きなら成績、もう30点上げな、大体な、数学教師の担任クラスなのに、早々に俺の評価が下がるだろが。」
「…はい。」
…篠崎美園は数学が苦手だった。
「ねえ、先生。こうしてると私達、道行く人にどう思われてますかね?」
作業を終えて帰路についた二人は、夕暮れの川沿いを並んでぼちぼち歩く。
「先生と生徒だろ。」
先生はそっけない。ムッとした美園は仕返しを試みる。
「…ね、先生の車、皆がカッコ悪いって。」
「ふっふっ、女子高のお嬢さんには分からんだろうな、アレはな、カスタム車なんだよ。」
「カスタム?それってスゴいの?」
「うん、改造車。ミラなのにスゴい速度が出るのさ。出さないけどな。」
「へえ、先生、そういうの好きなんですね。」
よく分からないが。
「いや、別に。…昔の友達から貰っただけ。あと、これも。しょっちゅう壊れるのさ。」
先生は、右腕の旧型のデジタル時計を差し出した。同じく友人達の評判の悪い、一品だ。
「新しいの、買わないんですか?」
見上げた美園に、先生は少し寂しげに笑った。
「ああ。…まあ、遺品だしなあ。…ところで篠崎。」
「あ…え?、はい。」
しんみりしていた美園に、咲良は尋ね返した。
「お父さん、今日も遅いのか。」
「…はい。」
「そうか、労ってやれよ。」
美園は小さく頷いた。
篠崎家は父子家庭である。小規模の建築業を営む父は、近頃仕事の帰りが遅かった。男手一つで育てられた美園は、重度のファーザー・コンプレックスだった。
そう、私が先生を好きな一番の理由は、いつか先生に「家が寂しい」と愚痴ったこと、覚えていてくれた事。
背格好よりも何よりも、私を見てくれた、慮ってくれた、そして今一番欲しい物、私に時間を割いてくれた、
ただひとりの大人ーー。
新たに赴任してきたその担任は、「咲良一路《さくら かずみち》」と名乗った。
お調子者の堂島ミキが、
「じゃあ、サクラちゃん、サクラちゃんだ」
と騒ぎ立てて、すぐ様、苦い顔をされた。
新任の先生が、若い男の先生だと知り、2ーBクラスは俄に色めき立った。
咲良は、割合均整の取れた顔立ちをしていたし、上背もあった。
年齢は28歳、これまで塾の講師をしていて、新規採用なのだと言った。
暫くの間「サクラちゃん」ブームは続き、美園も多分に漏れず、その1人だった。
ただし、「サクラちゃん」が持て囃されたのは、最初の一月だけ。
理由はいくつかある。彼の愛車が中古のミラだったことや、就活用のフレッシュマンスーツを未だに着ていて爽やかな風情がないこと、新任らしからぬ初々しさの感じられぬ気だるさ、いつも起き抜けのように長髪の寝癖が直らず、どこかくたびれた風采をしていたこと等々、要するに10代の少女の憧れを持続させる素養に欠けまくっていたからである。
ところが美園だけは違った。有体に言えば、しつこかった。
美園だけが、その小さな胸の中で、ミーハーな気持ちを本気にまで着々と発展させていたのだ。
「バカじゃないの?
そんなことしたら先生クビになんじゃん」
ミキは苛々と箸を回した。
「現実に引き戻さないでよ…。そうよ、家まで送ってもらうって約束しただけだよ」
「うわぁ、まさかあのミラで?私ならぜったいムリ」
「…歩き」
「え、でも確か帰る方向…」
「同じだよ?それが何?」
「だって、そんなのただのついでじゃん」
「違う!だって昨日まではそれすら断られてたし」
「はいはい…大体さ、一体アイツのどこがいいわけ?はっきり言って、はしゃいでるのあんただけよ」
「ふん、ライバルが減って精々したところよ」
「あっそ。そうだ、そういえば、ユリのカレシさー」
ミキは話を変え、他の皆と喋り始めた。美園は半ばふて腐れて弁当をつつく。
皆、分かってないわ、オトナの魅力ってやつが。
終業の学活が終わると、美園は弟2視聴覚準備室へと向かう。
彼女は、「郷土史・歴史研究部」の部長をやっている。
といっても、活動は殆どないのだが。
「部活動全員入部」を義務づけられた当学校の制度において、美園以外は全て幽霊部員だ。
それでも彼女は、人気のない第3校舎の3階隅で宿題を広げ、その扉が開くのを待ちわびる。
「おう、早いな篠崎」
しかし、彼女の期待も虚しく、その引戸の扉がガラガラと大きな音を立てたのは夕刻、もいお帰宅時間間近だった。
「咲良、先生…?」
数学プリントの宿題を半分やったところで、すっかり眠り込んでいた美園は、ぼんやりと顔を上げた。
「遅いですよ、もう」
「悪い悪い。職員室に入ると、何かと雑用言われんのよ、コピーだのプリント作成だのなんだの。かったるいのは全部やらせんだよな、新人にさ」
咲良はどんとプリントを置いて手前の事務椅子に腰掛けた。
「なるほど、で、先生はその下請けを私に回す訳」
「ん?まあな」
ニヤッと笑って、煙草に火をつける。
「あ、またあ。禁煙ですよここ、学校内!」
「一本だけ、頼むよ。篠崎」
両手を合わせて拝んでみせる咲良に、渋々承知する…演技。心の内でほくそ笑む。
そう、皆が知らない「サクラちゃん」は
口が悪くて、態度もでかくて、煙草をくわえる仕草がセクシー。寝癖の位置が好き、髪を掻き上げる仕草が好き。私と彼の二人きりの時間、私だけが知っている、私だけの先生だ。
出来るなら、彼が今くわえる煙草になりたい。そうしたら…。鼓動が速まり、顔が火照る。いけない、妙な妄想が、止まらない。
「おい、手、止まってんぞ?…ん?どうした、赤いぞ。熱でもあるのか?」
怪訝そうにのぞきこむ。美園は慌てて手を動かしはじめた。
「はい、すみません…
って、先生何にもやってないじゃないですか!」
「なんだ、もう終わってたのか、早いな」
嬉しげに椅子を立った先生に、美園はもじもじと下を向いている。
「って、まだ残ってるじゃねえの」
「あの、それはそうなんですけど…
ところで先生、この教室って、今二人っきりですよね」
「ああうん。郷土史研究部の活動タイムだからなー」
「そうそう。ちなみに…滅多に人通りもないんですよねー」
「そうだな。第3校舎は遠いし、人は滅多にこねえよな」
「先生!」
徐に立ち上がる。
「私、今までずっと迷ってたんですけど、やっぱり言います!…好きなんです、先生の事、愛してしまったんです!」
「…篠崎…おまえ」
「先生…」
見つめ合う二人ーー。咲良は篠崎に手を翳した。
「いたっ、何するんですか。
せっかく勇気を出して告ったのに」
叩かれた頭を大げさに擦りながら、咲良を睨む。咲良はその頭をさらにぐしゃぐしゃにした。
「サンキュー、11回目のアイのコクハク。ところで篠崎、俺が何の専科か、覚えてるよな?」
「勿論。数学の先生です!」
乱されたセットを直しつつ、自信たっぷりに答える。
「よく分かってるじゃないか、で、今マルつけやってた、30点のプリントは誰の?」
「はい?そんなの名前を見れば…あ、私だ。」
二人は顔を見合せ、微笑んだ…直後である。
「テメエは、嫌がらせか。そんなことバッカやって、遊んでるからだろが、俺をアイしてんなら、数学の成績上げやがれ。」
「うう、数学キライ。でも先生は好き。」
怒鳴られた耳元を抑えながら、嘆く美園。
「好きなら成績、もう30点上げな、大体な、数学教師の担任クラスなのに、早々に俺の評価が下がるだろが。」
「…はい。」
…篠崎美園は数学が苦手だった。
「ねえ、先生。こうしてると私達、道行く人にどう思われてますかね?」
作業を終えて帰路についた二人は、夕暮れの川沿いを並んでぼちぼち歩く。
「先生と生徒だろ。」
先生はそっけない。ムッとした美園は仕返しを試みる。
「…ね、先生の車、皆がカッコ悪いって。」
「ふっふっ、女子高のお嬢さんには分からんだろうな、アレはな、カスタム車なんだよ。」
「カスタム?それってスゴいの?」
「うん、改造車。ミラなのにスゴい速度が出るのさ。出さないけどな。」
「へえ、先生、そういうの好きなんですね。」
よく分からないが。
「いや、別に。…昔の友達から貰っただけ。あと、これも。しょっちゅう壊れるのさ。」
先生は、右腕の旧型のデジタル時計を差し出した。同じく友人達の評判の悪い、一品だ。
「新しいの、買わないんですか?」
見上げた美園に、先生は少し寂しげに笑った。
「ああ。…まあ、遺品だしなあ。…ところで篠崎。」
「あ…え?、はい。」
しんみりしていた美園に、咲良は尋ね返した。
「お父さん、今日も遅いのか。」
「…はい。」
「そうか、労ってやれよ。」
美園は小さく頷いた。
篠崎家は父子家庭である。小規模の建築業を営む父は、近頃仕事の帰りが遅かった。男手一つで育てられた美園は、重度のファーザー・コンプレックスだった。
そう、私が先生を好きな一番の理由は、いつか先生に「家が寂しい」と愚痴ったこと、覚えていてくれた事。
背格好よりも何よりも、私を見てくれた、慮ってくれた、そして今一番欲しい物、私に時間を割いてくれた、
ただひとりの大人ーー。



