リカコさんはメニューを手にとり、桂木さんに何か注文をしている。
やっとその美しい瞳から目をそむけて、桂木さんは調理を始めた。
わたしはそのまま洗い場へ入り、ことさらに強く蛇口をひねった。
だからもうふたりが何を話しているのかなんて、水の音にかき消されて聞こえない。
「今さら何しに来たんやろ? あの人」
「ほんまや。桂木さんもようやく傷が癒えてきたっていうのに。なぁ」
なのに、うるるんとトシくんがわたしに向かってささやいてくる。
「やっと忘れたころにやってきて、また心をかき乱すなんて。罪やわ、あの人。店長がかわいそうやん」
「よっしゃ、オレが見張ってくる。なんか悪い予感するしな」
うるるんにそう言うと、トシくんは鉄板の前へ行き、桂木さんと並んで調理を始めた。
とまっていたオーダーが、ちょうど数点入ったところだったし。
「沢井さん、10番、豚玉あがるよー」
そのとき桂木さんに呼ばれて、焼き場へ入る。
そのタイミングで、リカコさんの声が耳に飛びこんできた。
「ね、慎ちゃん、覚えてる?
この前言ってくれた言葉」
「え?」
「リカコは何も心配せんでええからって。
オレがちゃんとお前を幸せにするからって、言ってくれたでしょ……?」
それはあの晩、お酒に酔いつぶれた桂木さんが、リカコさんを抱き締めながら言った言葉だった。
「あれってもう時効かな?」
艶やかな唇がそう動いた。



