彼は藤娘

その夜、彩乃くんからは珍しく何の連絡もなかった。

……怒らせてしまったのだろうか。
明日、どうしようかな。
彩乃くん家(ち)か、お家元か、どっちに行けばいいんだろう。

ラインの返信もない。
てか、彩乃くんは読んでもいない。

まさかまだお家元にいてはるんやろうか。
私は、悶々と夜を過ごした。


朝5時。
相変わらず、彩乃くんは携帯を見ていないようだ。

私は、とても寝てられない!と、飛び起きた。
コンビニで食料とポカリスエットを買って、始発電車に乗る。
鳩がボーボー鳴いている声を聞きながら、私は早朝のお屋敷街をずんずん歩いた。

案の定、清元の唸りが聞こえる。
彩乃くん、やっぱりこっちに泊まったんや。

……まさか、一晩中お稽古してはらへんよね?
ドキドキしながら、入っていく。

お稽古場の入口には、お茶とお菓子とおにぎりがお盆にセットされて置かれていた。
これってお家元が、彩乃くんのために置いてったのよね?
彩乃くん、飲まず食わずで今まで?

恐る恐る中に入る。
エンドレスで清元をかけてるのだろう、さっき終わりの部分が聞こえてたのに、今は「保名」の登場シーン。

彩乃くんが、ゆらりゆらりと陽炎(かげろう)のようにはかなげに、なのに鉛のように重々しく歩いていた。

……すごい。
つい数日前までとは全然違う。

夢を見ているような、微笑みすら浮かべているのに、悲しい。
空虚。
そして、
涙を流していないのに、心が泣いている。
天を見上げて、立ち尽くし、泣いている。

歩みを進めた彩乃くんの脚がもつれる。

「あっ!」
慌てて駆け寄ったけど、間に合わず、彩乃くんは崩れ落ちた。

「大丈夫!?」

彩乃くんの顔を覗き込むと、焦点の合ってなかった目に光が灯る。
「……あき……体に力が入らへん……。」

「もう!当たり前やわ!飲まず食わずで徹夜でお稽古してたん?本番まで日ぃないのに、身体壊すわっ!」
私は、彩乃くんを起こそうと腕をひっぱりながら、そう怒った。

ぐったりしてる彩乃くんに、無理やりポカリスエットを飲ませる。
「おにぎりも食べる?お家元が置いてくださってたみたいよ。」

「んー。喰う。でも先に、寝たい。」
彩乃くんは私の膝を捉えて、頭を乗せた。
こらこら!

「ここじゃダメやって。彩乃くんのお部屋で寝よし。」
そう言って、彩乃くんの頭を押し上げる。
「……あ~。目ぇ開けてられん。連れてって。」

甘えてる。

「はいはい。ほな目ぇつぶってていいから、自分で歩いてや。はい、起きた起きた!」

彩乃くんを立たせて、手を引っぱった。