彼は藤娘

「私?」
「ああ。はじめてやる気になった。」
「藤娘(ふじむすめ)?」
私がそう聞くと、彩乃くんは苦笑した。

「お前それしか覚えてへんやろ?『藤娘』も『手習子(てならいこ)』も『鷺娘(さぎむすめ)』も『傾城(けいせい)』も、あきが見たがったからお稽古したのに。」

ごめん。
ほんまに覚えてへん。

「しかもしばらくしたら、来ぃひんようになってしもて。」
いやいやいや。
「それは私が悪いんじゃないもん。うちの師が、ココに来る用事がなくなったって。もしかしたら、子供の遊び場じゃないって怒られたんかもね?」

彩乃くんがため息をついた。
「まあ、そんなとこやろな。」

そして、彩乃くんは私の手を両手で包んだ。
私の心臓が跳ね上がる。
手を引っ張られるのとは、わけが違う……気がする。

「あの頃、大叔母さまが、俺が一人前になって、誰からも認められる舞手になったら、あきを、また連れてくるって約束してくれた。」
おおおばさま……それが、私の師の師に当たるのか。

「来月の舞台で認められたら、俺、副家元になる。そしたら、大叔母さまにあきに会わせろって言うつもりやった。」

今更ながら、緊張してきた。
告白される?
わ~~~~。
ドキドキがどんどん早くなる。

「せやのに、一足先に、あきに会ってしもた。」
「……がっかりせぇへんかった?こんなんで。」
私は照れ隠しにそんなふうに言ってしまった。

「あほやな。昔も今も。」
また、彩乃くんに「あほ」と言われて、私はうつむく。
……告白じゃなかった。

「大叔母さまにはフェイントかまされたわ。まさか今日、あきが来るとは思わへんかった。」
ふふっと小さく彩乃くんは笑った。
「縁(えにし)の糸ぞ そろかしく」
彩乃くんがまた謎の言葉を紡ぐので、私は顔を上げた。

「どういう意味?」
そう聞くと、彩乃くんはまたドウダンツツジに目をやってから、私を見た。
「やっと、あきとの縁の深さを実感できた。はい、おしまい。帰ろう。」

彩乃くんは、大通りでタクシーをつかまえた。
「一緒に乗って。」
「え!バスと電車で帰るけど!?」

そう言ったけど、彩乃くんに腕を引かれた。
「遅くなったから心配やし家まで送る。いいから乗って。どうせ家元からのタクシーチケットやし。」

彩乃くんは遅くなったことをうちの親に詫びると言い張ったけど、私はお願いし続けて遠慮してもらった。

割とマジで大事にされてるのかも、と私はまた少し自惚(うぬぼ)れた。