彼は藤娘

「ほな、帰ろっか。」
「うん。」

彩乃くんがお稽古場の電気を消すと、広い御屋敷は既に真っ暗。
御庭と廊下にだけぼんやりと灯がついている。

「足元気をつけて。」
彩乃くんがそう言いながら、私の手を引いてくれた。

あ、なんか、既視感(デジャ・ヴ)。
「昔、こんな風にしてよく歩いた気がする。」

私がそう言うと、彩乃くんは優しい顔で笑った。
「ああ。道行(みちゆき)のつもりやってんろ。」

「みちゆき……心中物(しんじゅうもの)?」
「別に、死ぬつもりはないけど。子供やからな、好きの最上級は『一緒に死ぬ』やと思ってた。」

好きの最上級……。
私は女の子やと信じ込んでたのに、彩乃くんはそんな風に思ってたんや。

「まあでも、事情が許さない恋なら心中も美しいのかな。」
ふと遥香のことを思い出しながらそう言った……まあ、遥香が五太郎さんに本気とも思えへんけど。

でも彩乃くんは、鼻で笑った。
「嫌や。俺は俺のやりたいようにする。時間がかかっても周囲を納得させる。」
その表情が不敵になる。
綺麗だけど、ちゃんと男性の力強さが漲(みなぎ)っていた。

「あれ、何の木かわかるか?」
彩乃くんが、欄干からお庭の一角を指さした。

早くも紅葉し始めている小さい葉っぱのこんもりした植木。
私は華道でよく使う植物しかわからない。

「名前は知らんけど、あやのちゃん……彩乃くんがよくあそこで泣いてたのは覚えてる。」

彩乃くんは少し頬を赤らめた。
「余計なことは覚えてるやん。あれ、ドウダンツツジって言うねんけどな、俺の両親が家元に内緒で植樹したらしいわ。せやし俺にとって、特別。」

「内緒で?」
穏やかじゃなさそう……てか、そもそも「家元」って彩乃くんのおばあちゃんやのに他人行儀。

彩乃くんは苦々しく言った。
「家元は俺の両親の仲に反対して、結婚を認めへんかった。」

やっぱりこういう世界やし、婚約者とかも他にいてはったんかな?

「父はこの家を捨てて母と駆け落ちした。生まれたんが俺や。」
……じゃ、彩乃くんは「家元の孫」は孫でも、バリバリの直系男子。

「俺が生まれたことで家元から許しが出て両親はこの家に戻ったんやけどな、5歳の時に父が病気で死んだら、家元は俺だけ手元に残して母を追い出したんや。」

え!?
それは、非道な。

「俺はすぐに、ここから逃げ出した。結局、裁判で親権は母と認められた。でも、家元も母も、死んだ父も俺に舞を続けさせたいという点だけは共通の願いやったから、母と暮らしながらここに通わされた。」
「ほな、彩乃くん自身は、舞いたくなかったん?」

彩乃くんはドウダンツツジに視線を移した。
「わからん。物心つく前から義務のようにやらされてたから。少なくとも、自ら進んでお稽古をすることはなかったな……お前に褒めてもらうまでは。」