彼は藤娘

私は、お片付けと明日の準備を手伝ってから、お役御免となった。

着物を脱ぎに行こうとしたら、別の小部屋にグイッと引っ張りこまれた。
瞬間、昔の記憶が脳裏によみがえる。
こんな風に、あやのちゃんに引っ張られて、物置のような小部屋でずっとおしゃべりしたこともあったっけ。

「思い出した。」
私を引きずり込んだ腕は、普通の男の人よりもたぶん華奢だけど、それでもあの頃よりは力強くて。
私は、ボロボロと涙をこぼした。

「なにも、泣かんでも……」
彩乃くんが、困った顔で立っていた。

「何でもっと早く言うてくれへんかったん?」
私は自分のハンカチを握りしめ、涙ながらにそう聞いた。

「何でって……女やと信じ込まれてるのに……恥ずかしいやん。」
彩乃くんは、ふてくされたようにそう言った。
その頬が確かに赤くなっていた。

「だって女の子の格好してたやん!しかもめっちゃ可愛くて綺麗やったやん!」

彩乃くんは顔をしかめた。
「……しょうがないやん。こんな家に生まれてしもてんから。俺の黒歴史やわ。……まあ、まだ続いてるねんけど。」
黒歴史、という言葉に、彼も不本意だったのかなと感じた。

「てゆーか、思い出した、って何やねん。『思い出すとは忘るるか。思ひ出さずや忘れねば。』やで。忘れてんなよ。」
彩乃くんは、また古語を引用した。

……そうか……日本舞踊のお家元の孫で、まもなく副家元やって言うてたもんね……長唄とか常磐津とかの言葉をめっちゃよく知ってはるんや……。
私も古典は好きなほうやけど、ちょっと知識のレベルが違い過ぎるみたいで口惜しい。

「だって、ほんまに忘れててんもん。女の子やと思ってたし。」
私がそう言うと、彩乃くんはため息をついた。

「俺はずっと次また会える日を楽しみにしてたのに。冷たいわ、『あきちゃん』。」
昔のように、彩乃くんは私をそう呼んだ。

「……思い出せへん私にいつまでも教えてくれへんかった『あやのちゃん』かて、冷たいやん。」
私も、そう言い返した。

しばらく睨むように見つめあったけれど、そのうちにどちらからともなく、笑い合った。

「別にイケズしてるつもりはなかってん。ほんまに。ただ、俺のこと、思い出してほしかっただけねん。」
彩乃くんはそう弁明した。

「うん。ヒントもくれたもんね。ごめんね、すぐピンと来ぉへんくて。」
私の言葉に、彩乃くんはうなずいた。

「まあでも、あれはうれしかったな……昔の俺を女やと信じてるくせに初恋って言うたん。びっくりしたわ。」

たぶん私の頬は、ぶわっと赤くなっただろう。

本人に告白してしまってたんだなあ、私。