彼は藤娘

「先月のミュージカルは楽しかったのにねえ。」

私がそう言うと、それまで半分まぶたを落としていた遙香の目がパチッと開いて歌い出した。
「♪い~のち~み~じ~ぃ~か~し~ こ~い~せ~よ を~と~め~♪」

コーラスで練習している「ゴンドラの唄」が、先月観劇したミュージカルでも使われていたのだ。

自分で歌ってシャキッと目が覚めたらしい。
「じゃ、ボランティア、行ってくる!」
と、遙香は足取りも軽く行ってしまった。

……何とかして上垣真秀さんに近づきたい遙香は、今、墓所の掃除のボランティアに参加している。
やっと、挨拶すれば、無言で会釈してもらえる程度に認識してもらえるようになったらしい。
今までのようにアピールできないらしく、その歩み寄りは遅々として進まない。

「なっちゅんは、一旦学校戻るん?」
「うん、部活の後で宵々山~♪ がんばって、佐野先生とはぐれるわ!」
……一人ならともかく、二人連れで他の生徒さんからは故意にはぐれるのは、かなり難しいのではなかろうか。
ま、がんばれ!

私は燈子ちゃんと2人で、芳澤流のお家元へ。
燈子ちゃんは、今日から日本舞踊を習う。
ちょうど彩乃くんの「綾之会」も明日が初会合。
いいタイミングで始められるようだ。

お家元へ行くと、燈子ちゃんはお稽古場へ。
私は毎週の恒例で、お花を活けて回る。
今月は祇園祭なので、やたらヒオウギが入ってくる。
ヒオウギのお生花(せいか)は、見た目以上に難しい……矯(た)めようとして大事なところを折ってしまうことが多々あるのだ。
今週も時間をかけてじっくりとヒオウギと格闘していると、鼻孔をくすぐる薫香をたゆらせて彩乃くんが近づいてきたらしい。

「あき~。おやつもろた~。お茶入れて~。」
振り返ると、子犬モードの彩乃くんは、今日もかっこよくて綺麗でかわいかった。

「あき、ようかん、あんまり好きちゃうやろ?こっちにする?」
彩乃くんは2種類のお菓子を持っていた。

竹筒に入った水羊羹と、……「したたり」!

「いや~!『したたり』がいい!それ、食べる~!」

彩乃くんは手に持った羊羹の包みをもう一度見る。
「これ、『したたり』って読むにゃ。ずっと『したり』やと思ってた。これも羊羹やのに、あき、これは好きなん?」

連綿体で「したゝり」と書いてあるので確かに読みづらい。
私はこくこくとうなずいた。
「菊水鉾でお茶いただいた時に出てきたん。めっちゃ美味しいねんもん。」

彩乃くんは首をかしげた。
「ふ~ん?俺はこっちのほうが好きやけどな~。」
そう言いながら彩乃くんが懐(ふところ)から出したのは、羊羹と言えば!の、とらやさん。
……彩乃くんは、甘党やから。