彼は藤娘

途中で遥香がトイレに行ったが、終演しても帰って来なかった。
観客がみんないなくなっても遙香は戻ってこない。

本堂の前の広場に出て、遥香の携帯に電話してみる。 
「あ、遥香?今、どこ?もうお能終わっちゃって……」
私の言葉を途中で遮って、遥香は震える声で言った。
『あきちゃん……。』

うん?
「どしたん?今、どこ?」
鳩に餌をやってはしゃいでいる奈津菜と燈子ちゃんを微笑ましく見ながら、もう一度現在地を聞いた。

遥香は、少しの沈黙の後、
『太鼓楼の前……。』
と、なんだか様子がおかしい。

「なんでまた?……とりあえず行くわ。」
私は電話を切ると、奈津菜と燈子ちゃんを呼んで一緒に敷地の東北角の太鼓楼へと向かった。

遥香は、ぺったりと地べたに座っていた。
「遥香!?」
何があった!?
慌てて駆け寄り、遥香を立ち上がらせた。
「どしたん?こんなとこ座って。」

そう尋ねると、遙香は
「お坊さん……」
と、つぶやくように言った。

お坊さん?
……ここは本山だからお坊さんはたくさんいるけど……お坊さんがどうしたって?

遙香は、ぶるぶると首を振った。  
「遙香、もしかして、一目惚れした?」

奈津菜の質問に、遙香は困ったような顔をして首をかしげた。
「そういうんじゃないと思う……けど……」
遙香は太鼓楼を見上げて、ため息をついた。

いつもの遙香の恋愛ごっこか、と呆れかけたけど、今日はちょっと違ったらしい。
遙香が落ち着くのを待っているとお茶席が終わってしまいそうなので
「とりあえず、お抹茶を飲んで心を落ち着けようか?」
と、足取りのおかしい遙香を強引に引っ張って、国宝の建物へと向かった。

秀吉の建てた聚楽第の一部と言われる楼閣の茶室では、男性がお点前をしていた。
こちらは私の習う流派とはまた違うけれど、お茶席でお茶をいただくだけなら自分の流儀を貫いても問題ない。
私はいつも通り、美味しくお茶をいただいた。

明らかに様子のおかしい遙香だったが、昨秋来、茶人の元彼に作法を教わった成果はちゃんとあったようで、別人のように美しく振る舞っていた。

が、お点前が終わり、お道具の回収に人が慌ただしく出入りし始めると
「あ!」
と声を挙げて赤くなり、そのまま、うつむいて小さくなってしまった。

私たちは遙香の反応した方向を見たけれど……顔を見合わせて首をかしげた。
先ほどお点前をしていた男性、お運びの女性たち、そして黒い法衣の職員の男性が1人。
……てことは?……あの法衣の人?

さっきそういや「お坊さん」って言うてたっけ、遙香。
でも、お坊さん?
確かに黒い法衣は着てるけど、白いシャツとネクタイの上から着てるようだし、髪も普通にふさふさと黒いし……まあ剃髪する宗派じゃないけど……。

中高な細面の顔立ちは、意志の強さを感じさせる。

黒い法衣さえ着ていなければ、……うーん……ストイックな……上流武士?