彼は藤娘

困って突っ立っていると、お家元がいらっしゃった。
「あら、おはよう。どうしたの?直接、歌舞練場に行くんと違うたん?」
「おはようございます。あの、お借りしたお着物、こちらに置いて帰ってしまって……」

お家元が、思い当たったようにうなずいた。
「はいはい。それやったらまだあるわ。今着る?向こう行ってから着る?帯、手伝うたげるえ?」

私はホッとしてお家元にお願いした。
「今、時間ありますか?お願いします!」

……会場でお家元に着付けてもらうというのは、さすがに目立ち過ぎてしまいそうだ。
私はすぐに、お着物の包みを受け取って、着替えた。
やはり今回の帯の芯もとても硬くて……1人ではちょっとしんどそう。
お家元に締めてもらえてよかったぁ。

結局、私はお家元と同じ車に同乗させていただいて、歌舞練場へ行った。

到着すると、既に師の師のお弟子さんたちがお茶席の準備を始めていた。
「じゃ、私はお茶席のお手伝いに行きますね。」

お家元にそう断って車を降りようとすると、
「あ、明子ちゃん。彩乃さんからチケットを預かってますよ。」
と、封筒を渡された。

……あ、そう言えば、昨日もらい忘れたっけ。
「ありがとうございます。」
ん?6枚?
……ああ、そうか。
セルジュと義人くんの分も入ってるのか。

1列の真ん中が3枚と、2列の同じ席番3枚。
これ、どう並ぶのが平和なんだろう……。

お茶席の準備をお手伝いしていると、色々と興味深い噂話が耳に入ってきた。

先生がた同士の仲不仲、不倫の噂、そして、彩乃くんのお父さまとお母さまの話。

……彩乃くんの養育権を争う裁判は、弁護士の社中さんが中心となって起こしたそうだ。

当時、お母さまはご実家に身を寄せてらして、無職。
そのご実家も、お母さまと彩乃くんを持て余していたので、勝てる裁判だったらしい。
でも、見かねたお継父さまがお母さまの再婚相手に名乗りを上げたことで、お家元は訴えを取り下げたそうだ。
社中さんたちは未だにそれを納得していないのだろう。
彩乃くんは、彩乃くんの本当のお父さんのようにわかりやすい「良い子」じゃなかったから。
なるほどな~。

「熱心に聞き耳たててからに。全部信じたらあかんよ。当事者にはそれぞれの思惑があるねんから、他人の推量を鵜呑みせんときや。」
師の師に背後からそう言われて、ドキッとした。

「お、おはようございます。舞台稽古は終わりましたか?」
「おはよう。あんた、副家元に何したんえ?あんなうちひしがれたあの子見るのん、久しぶりやで。」

「え?」
……師の師が、いつになく恐い。
いつも「明子ちゃん」て呼んでくれるのに「あんた」って!
私は、マジマジと師の師を、見た。 

このかたが私に優しいのは彩乃くんと私が良好な時だけ?
怖いな……

そうすると、それでも変わらず私に優しくしてくれたお家元って、やっぱりすごいと思う。

私は、ポンッと、お家元の締めて下さった帯を軽く叩いた。