午前五時。目覚まし時計のアラームがけたたましく鳴った。
俺はアラームを止めベッドからそろりと起き出すと、音を立てぬよう階段を下りた。暖房を付けぬまま、キッチンの冷蔵庫を無造作に開けた。中には昨晩、母親が用意した生ハムのサラダやフレンチトースト、トマトジュースなどがらラップで丁寧にくるまれ、所狭しと並んでいた。俺は何の躊躇いもなく、奥から食パンの袋と牛乳のパックを取り出した。
ダイニングチェアに腰を降ろすとテレビの電源を入れ、ボリュームを絞った。画面には女子アナウンサーが、大げさにイヤーマフと厚手のコートを着て天気図の説明をしている姿が映し出されている。
今日も晴れか。
キッチンの小窓に掛かったブラインドからは、鋭く尖った光すらまだ届いてはいない。
天気予報が終わり新聞に目を通していると、生温かい物体が足元にまとわりついた。老犬の“リリー”だ。身体を屈め頭を撫でてやると、リリーは眠たそうに潤んだ目を細め、手の甲を舐めてきた。ちぎった食パンを牛乳に浸し、リリーに一切れやった。猜疑心の欠片もないその様を、俺はしばらくぼんやりと眺めていた。すべてを食べ終わってしまうと、リリーは器用に両手を舐め、ふたたびリビングへと戻って行った。

玄関ドアを開けると、外はまだ暗かった。
俺は『小川凛子』のことを考えた。彼女は今朝もあの土手に現れるだろうか?昨日教壇に初めて立った時、他の女子生徒が媚びた視線を投げかける中、彼女だけは頬杖を突き、俺ではなく校庭を眩しそうに眺めていた。土手で出逢った時は、鼻歌を歌っていた彼女を思わずからかったが、顔を真っ赤に染め俯き加減で話す彼女の姿に、俺は感銘すら覚えていた。
昨日の寒さが嘘のように今朝は生暖かく、電車に揺られていると、マフラーを巻いた首元が汗ばんだ。
昨夜も父親とささいなことでやり合った。この一年、そんな日々が続いていた。何もかもが白々しく、陰鬱な空気が漂う家が嫌いだった。俺は目を青く染めるような空と、太陽の光を求めているのかもしれなかった。
聖南学園前駅で降りると、俺は首に巻いていたマフラーを取り、土手に向かって歩き出した。その頃には、朝の邪気のない太陽の光が、着ているピーコートの前ボタンにあたって騒々しく砕け散った。
学園に続く土手に差し掛かると、昨日、久しぶりに聞いた『僕がぼくであるために』を何ともなしに口ずさんでいた。
しばらく歩いて昨日と同じ場所に陣取ると、鞄を放り投げて寝そべった。植物が惜しみなく光合成をするように、手の先から足先までを思い切り伸ばし、太陽の光を思う存分、身体中に浴びた。
俺はいつの間にか眠ってしまっていた。気が付くと、土手の上から小川凛子がこちらを覗き込んでいた。
「そんな所で、何してるんですかー?」
眉の少し上で切りそろえられた前髪が、春を思わせる生暖かな風に揺れた。
俺は思わず息を呑んだ。
「君のこと、ずっと待ってたんだ。リンゴちゃん!」
彼女の顔がみるみる紅潮して行く。怒らせた。彼女はじっとこちらを睨み付けている。俺は透けるような青空を見上げ、尾崎を口ずさみ続けた。
すると彼女はスカートの両端を掴み、器用にスルスルと土手を降りてきた。土手の下までくると、持っていた鞄とマフラーをいきなり地面に叩き付けた。
「一体どういうつもりなの?ちょっとイケメンだからって、いい気にならないでよ!私をからかっってそんなに楽しい?」
と、まるで癇癪持ちの子供のようにいきり立った。
俺は言った。
「“凛子”っていい名前だよな」
彼女は俺の言っていることの意図が読めない様子で、
「何を言っているの?冗談もいい加減にして!ここは私だけの特別な場所なの。私の日課を邪魔しないで!」
と、食って掛かってきた。
俺は上体をゆっくりと起こすと、彼女に右手を差し出した。
「さぁ、立って」
彼女は濡れた瞳をきょとんとさせ、首を傾げた。
「凛子って、本当にいい名前だと思うよ。凛とした、君みたいな女の子にぴったりだ。親に感謝しなくちゃな」
彼女は朝日に照らされた遠くの山々を見据えたまま、徐に口を開いた。
「凛子ってね、父が付けてくれた名前なの。六年前に母と離婚して、今はもういないけど」
「そうなんだ、嫌なことを思い出させちゃってごめん」
俺は戸惑い、ピーコートの右ポケットに手を入れると、昨日借りた彼女のハンカチとCDロムを取り出した。
「これ、昨日は有難う。それと昨日のお礼」
「これ…山口君がアイロン掛けたの?」
「うん、俺、結構そういうの得意なんだ。小川さん、尾崎好きだろ。俺も結構好きでさ。昨日、家で焼いたんだ。良かったら聴いてよ」
しばらく彼女は手元に視線を落としたまま黙っていたが、みるみるうちに肩を震わせ泣き出した。
「山口君、ごめんなさい。私てっきり、からかわれているのかと思って…」
「気にするなよ。俺も驚かせたりして悪かったよ、ごめん。泣くなって、小川さんらしくないよ」
俺は彼女の右肩に手を置くと、ポケットからハンカチを取り出し渡した。
「ごめんなさい、有難う」
「ねぇ、小川さん、明日からも俺、ここで君を待っててもいい?」
「えっ?」
彼女の黒く大きな瞳が俺を見上げた。
「迷惑かなぁ…俺、小川さんと話してると、凄く自然で楽しいんだ」
「楽しいって、私と話していて?」
「そう、俺何か変なこと言ってる?」
彼女は口をぽかんと開けた。
「だっておかしいよ、山口君。まだ、昨日会ったばかりじゃない。それに私、誰かといて楽しいなんて言われたこと一度もないもの」
「俺は楽しい」
そんなこと急に言われても…」
「小川さんは、今のままで十分だよ。もっと自分に自信持たなきゃ。俺たちさぁ、何処か似ていると思わない?」
自分で言っておきながら、意外な言葉だった。
「例えばさぁ、誰かと笑っていても、心の何処かで孤独を感じてしまったり、自分だけ何かが違うと感じたり。そんなことない?」
小川凛子に興味を抱いたのは、たった今、彼女の父親の話を聞いたからではない。昨日、彼女に出逢った瞬間感じた、孤独の匂いのせいだったのかもしれない。
「うん…でも、みんなそうなんじゃないのかな?誰だって何かを抱えて生きているんだし」
「じゃあさ、昨日みたいに寒い日に、朝っぱらからこんな所で寝転んでいる奴、他にいる?俺も君と同じで、朝のこの空気感とか大好きなんだ。あとさ、クラスに今どき、尾崎を歌える奴らなんて、絶対いないし。これだけは断言できる」
彼女はぷっと吹き出したが、急に真顔になって、
「でも、無理だよ…」
「どうして、俺じゃ迷惑?」
「ううん、そんなんじゃないの。今、山口君が言ってくれたこと、私、凄く嬉しかった。でもね、約束したの」
「約束?」
「あのね、うちのクラスのある子が、山口君に一目惚れしちゃったの。それで、その子のためなら、私何でも協力するって。それに山口君、まだみんなのこと、何も知らないじゃない?もっと時間を重ねて行けば、気の合う仲間や彼女だってできると思うの」
「そういう問題じゃないんだ。そりゃ、時間を重ねれば気の合う奴らも何人かはできるだろうし、いずれは彼女にしたいと思う子も現れるかもしれない。でも、凛子ちゃんとは…ごめん。小川さんとは、仲間とか恋人とかそんな薄っぺらいものじやなくて、もっと根っこの深い部分で繋がっていたいって思ったんだ。一生を掛けて付き合える“同志”みたいな関係。別にこうして時間をふたりで共有することは、やましいことでも何でもないだろ?」
「山口君にとっては、仲間や恋人って、そんなに薄っぺらいものなの?私にとって仲間は大切な存在だよ」
「そうじゃなくてさ、上手く言えないけど、男とか女とか仲間とか恋人とか、そんなんじゃなくて、小川さんとは人として向き合いたいって思ったんだ」
彼女はふたたび肩を震わせた。
「山口君の気持ち、痛いほど良く分かった。じゃあ、ふたつだけ約束して」
彼女は俺が朝の日課に加わることを了承した。その代わりに、俺達はふたつの約束を交わした。
1.どんなことがあっても、日課のことは絶対に誰にも口外しないこと。
2.そしてふたりは、いつどんな時も必ず“同志”であること。
こうして、俺と凛子の秘密の日課が始まった。